仏教による幸福への成功方式 #32(第四章三宝印 涅槃が目的)

涅槃が目的
 前によく出てきました正見、正覚と涅槃(nibbanaニバーナ)とは同じことです。一切の苦しみを消滅させた静寂な心の状態のことです。これこそが仏教徒としての最初の目的です。私共は漠然としたただ立派な人間になるのだという精神修養とは違うもっとはっきりした目的を持っています。涅槃とはニバーナの音を写したものですがそれは煩悩の火をふっと吹き消すがごとき-といった心の状態を示すものです。ニバーナとは吹き消すという意味があるのです。ここにローソクの火つまり三毒の心の火が燃えています。三毒とは愚痴→欲→怒、でしたね。これが心の中でポッポッと燃えたぎるから心臓はドキドキ頭はカッカッで全く熱病となるわけです。心因による病気ですね。これが永く続けば他の四因と組み合って完全な発病です。この火はどっちみち消さねばなりません。そして火が消えて心だけのあつくも冷たくもない静かな境地を目的とするのです。

 涅槃は尊く静かなり-個人の完成、実に尊い最高の心の状態ですね。ところがこの境地は何とも具体的には言いにくいのです。真の幸福として五つの幸福をあげました。富と健康は具体的につかめるのですが、そして愛情も或程度具体的な要素が入っているし又入っていないとまずいのですが、自由だけは具体性を離れてしまいます。一切の物、一切の愛欲、一切の邪見、自分と他、そうした自分の心に引っかかりをつけるような執着、具体的なものと具体的でないものとの両方から抜け出して自由だというのです。風船に入れられた空気が、いやとも言はぬし、破れればもとに返るようにどっちでも少しも苦にしない自由さ。それで世尊もこの説明だけは言葉ではうまく言えぬとされました。それで不自由さ執着を取ればよいのです。愛に対し物に心に対し、社会に対し名声に対し一つ一つとらわれをとってゆけば不自由がなくなるから自由になってしまいます。この不自由さ執着が煩悩です。これはかなり具体性を持っていますからそれから離れるのは、自由に近づくという話より分かり易いものです。それで一つ一つの煩悩を取ればよいのですが、日本仏教にはそんなこと言っていたら煩悩は根強いし沢山あるから一生の内には間に合わないという考えがあります。そう思う人にはそうでしょう。世尊は明らかに煩悩を断ぜよと言われました。ひまがかかることを恐れる人々は一つの事実を見落しています。子供にいろは五十字を教えるのはとてもひまがいるのでこんな調子で大丈夫だろうかと案じますが二年もすると素晴らしい加速度がつくものです。信仰も人間のすることだから同じことです。分からない分からないと言っていた人もどんどん加速度がつくから安心して世尊の言葉を信じましょう。精進には必ず果がきます。煩悩は根深いがそんなに沢山はありません。本能的な、さとりの妨げになる心は数えても知れたものです。やってみようではありませんか。

 この目的の言い表しはうまく出来ないが(何故なら常識では及ばない境地だからです)正行法は明確に八正道として説かれてあり、正見涅槃に非ざる心の状態も詳しく説いてありますから、それを頼りにすれば充分なことが後に分かってきます。つまり涅槃を言葉の上で理解しようとして、何一つ正行を実行しないならばたとえ適当な言葉があっても真の理解にはならないのです。実行していれば言葉がなくとも別に不自由でなく、そこに到達することが出来ます。分かりたければ基礎勉強(正行)をすることです。この正行法は正見→正念正定→正見の繰り返しだったですね。初めの正見は正見でないものつまり邪見を習いその反対が正見だと納得すればよいのです。後の正見が正確な正見です。

「比丘らよ、二種の涅槃界がある。二種とは余りある涅槃界と余りなき涅槃界のことである。余りある涅槃界とは、比丘が、煩悩を滅し清浄の行を成就し、なすべきことをなし終り、重荷おろし自分の目的を達し後の生を招く煩悩を起こさず、正しい智慧によって解脱したアラカンであり、五根が残っていてこわれず愛すべきものと愛すべからざるものを受け苦楽を経験する。この怒り、貪り、愚痴を滅したことである。

 余りなき涅槃とは、比丘がアラカンとなり彼のすべての感覚を受け味わず冷たくなることである」

「比丘らよ、生を離れ、有(物)を離れ、行為を離れ、作用を離れたものが実在している。故に生と有と行為と作用とから離れねばならぬ」
(中アゴン大方広経)

「いさましく煩悩の流れをよこぎり、欲を除け、仏教徒よ、ものみな静かなるを知らば、汝は涅槃を知るなり」(法句経)

 あなたも仏教徒として目的、涅槃が分かりかけてきましたね。不正欲求のすべてを思い切りよくふりすてて、さっぱりなることです。それが出来るか出来ないかやってみるという菩提心(Bodhiボデイ覚り)を起こしましょう。もっと先で信仰しましょうなどというのは、信仰の目的と喜びを知らないからです。

「自らを責め、自らを試せよ。かくてこの比丘は正念を守り、安楽に住むべし」

仏教徒を打つ勿れ、打たれて仏教徒は怒る勿れ、仏教徒を打つ者は狙われる。打たれて怒る者はなお狙われる」
(法句経)


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