三宝法典 第二部 第五八項 アジャセの病い

 アジャセの病い
ビンビサーラ王は、その夫人がアジャセにとじこめられてより、食をたたれて、わずかに窓よりギッジャクータ山の木々の緑を仰ぎ見て、心の慰めとせり。太子はこれを聞きて、その窓をふさがしめ、足裏をけずり立ち得ざるかごとくなせり。

そのころ、アジャセの子ウダヤは、指先の出来ものに苦しみたれば、アジャセ王は子をだきてそのうみを吸い出せり。かたわらのイダイケ夫人はこれを見て言えり。

「王よ、おんみが幼きころ、これと同じ出来ものを病み、父王はおんみのなせるがごとく、うみを吸い出されしことあり。」と。

これを聞きてアジャセ王は、父王に対する怒りをとき、父をしたいて、父を助くるべく家臣に告げたり。家臣らきそいて父王のもとにかけつけたれば、その足音を聞きて父王は、重き刑を加えらるるならんと驚きおそれ、苦悶して息たえたり。

世の楽しみに心くらみて罪なき父王を死にいたらしめたるアジャセは、悔いに心せめられ、身は熱を病み、全身に出来ものを生じてうみ汁が流れ出でたり。そのくさきに悩みつつ、かれみずから思えり。

「われ今、地獄のむくいを受くるならん」と。

母のイダイケは悲しみて種々の薬をぬれどさらに治らず、かれは母に語りたり。

「この出来ものは心より出づるものにして、身より出づるにあらず。されば人の力にて治すことかたし」と。

王は病床に臥したれば、大臣らそれぞれ来たりて慰め、外道の師への聞法をすすめたれど、心すすまず。時に大医ジーバカ来たりて言えり。

「大王よ、罪をおかしたまえど今、深く後悔し、大いに恥じ入る心を起したまえり。ブッダ世尊はつねに仰せらるるなり『二つの善法ありて衆生を救う。一つは慚、二つは愧なり。慚とは内心をかえりみて恥ずる心にて、愧とは他に対して恥ずる心なり。この慚愧の心なき人は、人にあらずして畜生なり。慚愧の心ありて、父母師匠を敬う心も起こり、兄弟姉妹みだるることなし。」と。

金剛のごとき知恵を持ち、人々の罪あやまちを滅したもうブッダ世尊こそ、大王の重病を治さるる方なり。」

時に空中より声あり。

「大王よ、罪をおかさば、それに相当の罰を受く。大王のおかせる罪は地獄におつるをまぬがれず。さればすみやかに世尊のみもとに参るべし。世尊のほかに王を救う者なし。われは王をあわれみて来たりすすむるなり。」

これを聞きて大いにおそれて、王はその声の主を問えり。

「われはおんみの父ビンビサーラなり、ジーバカのすすめにしたごうべし。邪見に迷わさるることなかれ。」

アジャセ王はこれを聞きて驚き、失神して大地にたおれたり。身体中の出来もの一時に増して毒熱を生ぜり。

世尊は、はるかに神通をもってこれを見たまい、アジャセのために月愛のサマーディに入られ、大光明を放ちたまえば、この光明、清浄にして涼しく、アジャセの身を照らし全身のかさ一時に消えて治れり。

王はこの不思議にあいて、ジーバカに問いたれば、ジーバカは答えり。

「大王よ、今この光明は王を治さんがためになされしものなり。世尊はまず身の病いを治し、ついで心の病いを治さるるならん。この光明は月愛のサマーディと名づけられ、衆生の善心を起こさしむるはたらきあり。たとえば月の光りはすべての道ゆく人に喜びを与うるがごとく、月愛サマーディも覚りの道をたどろ修行者に喜びを与うるものなり。」

時に世尊、大衆に告げたまえり。

「すべての衆生が覚りをうるにもっとも近き因縁となるものは善友なり。ジーバカのすすめにしたがわざれば、王も救わるることなし。」

ジーバカにはげまされて、世尊のみもとにまいりし王は、そのみ教えを乞えり。

「大王よ、覚りの性質は、存在すとも言われず、存在せずとも言われず。しかもそのはたらきより言えば存在するがごとし。殺生の性質は存在すとも言われず、存在せずとも言われず。慚愧の心ある人に対しては存在すとも言われず、慚愧の心なき人に対しては存在せずと言われず。殺生をなせることのむくいを受くる人にとりて殺生は存在するなり。」

世尊、種々ねんごろに法を説きたまえば、王は歓喜して信仰の心を起し、目の前に世尊を見たてまつる功徳をもって、未来の衆生の煩悩をほろぼすに振り向けんと誓えり。この善き言葉を聞けるあまたの人々、一時に覚りを求める心を起こしたるがゆえに、アジャセ王の重き罪、大いにうすらぎたり。