全現 216号 学ぶ喜び

 (一善友)-「自発こそ原点」まさにその通りで、自発を掘り起こさなければ大きな力は得られず、持続もないわけですね。自発は自然に湧いてくるものなのか、どうしたら自発があるのかが教育者への課題であり、自分自身への課題かと思います。周囲からの暖かになるように思われます。「学ぶ喜び」も自発につながるものと思います。人間が本来持っているものと思われるのに、それを抑圧しているものは何なのかとも考えさせられます。楽をしたいという本能なのでしょうか。そうなると矛盾を感じますが。

  「楽も自発」-何もするな、楽にしていなさいと命じられては本当の楽にならないですね。自ら求めた楽の状態こそ楽であります。何かを積極的にするのも、消極的にしないのも自発であれば満足喜びです。生物はこの様に自発一貫であると言えましょう。

     「生物=自発=学習=達成=喜び=継続」
 楽は何もしない状態よりも、楽しむという動詞性でしょう。所が日本の伝統は努力勤勉を美徳としてきたから、苦労が当たり前で、楽をする楽しむ事を悪徳としてしまったですね。学習も勉強努力でおよそ喜びに遠いものとして怪しまないです。これは悲劇です。

 学ぶ喜び
上役から仕事以外の事で教えられる。すると『ヤア勉強になりました』と下役がゴマをする場面が、今でもドラマに出てくる。まことに勉強好きな国民である。だが一寸考えると、これは学びだろうか。茶道・柔剣道・書道・華道と色々道のつくものがあって、いかにも学ぶ事を喜ぶ国民性のようである。だがこれらは学ぶというよりも教えて貰うの様だ。もしその師より、自ら学ぶ所が多ければ、大体は別派分離する。これは「教え」の系列には「学ぶ」の系列を異端視する傾向があるからではなかろうか。もしこの教と学が別系列であるとすれば、これは大大問題と言わねばなるまいがサテ。

フランスで、日本の商社社長がフランス人部長に、部下の課長に教えるようにと云った所、フランス部長いわく。彼はその能力があるとして採用されているのでアル。また彼に教えれば自分のポストが危うくなるト。これを日経古新聞で読んだ時、これが民族の違いだと深く感心したことがある。アメリカのビジネスストーリーには「この仕事が出来るか」と云われたら「出来る」とまず答え、帰宅してからその学習をせよ、とある。これが学習の系列であろう。
 
日本だと「私なんかとても」とまずケンソン自己否定をせねば、アイツは少し生意気だという、人格的評価を受けねばならない。つまり仕事能力論が人格論(人間関係論)にすり替えられる。
 
かつて失業の苦しさから米軍キャンプの通訳試験を受けた事がある。熊大卒と二人、婦人大尉の前でテストを受ける。名前と学校歴の質問である。かの大学士はトッサに声が出ない。この程度なら私でも答えられる。つまり声を出したのである。すでに就職している二世が推薦をしていたが彼はソーリー、高校中退の私はオーケー。アメリカには推薦も学校歴も関係なしと、気付かせられた事がある。もっとも下っ端通訳の採用位の事だからだったかも知れない。
 
今、文部省が生涯学習(教育)形格(計画?)を云々しはじめた。学校教育を生涯教育(学習かどちら?)の一端として位置づけるという次第。どうやらアメリカがやっているからというのが実情らしい。この式だと銀行強盗もアメリカがやっているからか?
 
生涯はともかく、この教育なのか学習なのかをハッキリさせる事が必要だろうが、これもまたお上がお決めになるという、何百年前からの善き伝統としての上下方式で、貴重な税金が使われる事になる。サテ何をテーマにするかというテーマさがしから始まる。


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