三宝法典 第二部 第一三項 鋸の譬

鋸の譬

世尊、祇園精舎にとどまりたもう時、モーリヤパッグナ・ビクは、ビク尼らと親しくゆききし、ビク尼らをかばい、非難なす者あれば、怒りて争いを起こせり。またビク尼らもかれの悪口を聞きては怒りてかばえり。世尊はパッグナを呼び、これを確かめて仰せられたり。
  
「パッグナよ、信仰によりて出家せるおんみにとりて、ビク尼らと親しすぎるはみにくきことなり。おんみの前にてビク尼らの悪口を聞くも、おんみは世俗の欲望と考えを捨つるべきなり。
  
『わが心は変わらず、けわしき言葉はわが口よりもるることなし。同情とあわれみをもちて慈しみの心に住むならん。ひそかにも怒りを抱くことなし。』と学ぶべきなり。
 
ビク尼らが手や棒にて打たるる時も、またおんみ自身が悪口を言われ打たるる時も、おんみは世俗の欲望と考えを捨つるべきなり。」
 
さらに世尊は、ビクらをかえりみて説きたまえり。
  
「ビクらよ、かつてわれビクらに『われのごとく日に一食をとりてすこやかに暮らせ。』と命じたることあり。されどこれらのビクにはこの教えを要せず、ただ正念を呼び起こすことを要するのみなり。
 
平らかなる道によく馴らされたる馬をたくみなる御者が走らする時、ムチや棒も不要なるがごとく、ただ正念のみが必要なるなり。それゆえ、おんみらは悪しきを去り、善を保つべし。かくしておんみらは、この教えによりて進むならん。
 
森の木を愛する人が、むだなる枝を切り取り、掃き清めて木を成長さすがごとく、おんみらも平常の心を養い、異常の時にも平常の心を保ち得るがごとく学ぶべきなり。

かつてサーバッティーに夫を失いしベーデーヒカーあり。親切けんそんにして、心静かなりと噂されたり。よく仕事をなす賢き女中カーリーは、この主人をためさんと思い、朝おそくまで寝て怠けたるところ、この女主人は、怒りて女中と言い争い、ついに棒をもちてかの女中の頭を傷つけたり。女中は血にまみれて家を飛び出し、これを言いふらしたれば、かの女は恐ろしくあらくれの女なりとの噂に変わりたり。
 
ビクらよ、かくのごとく、何びともおのれに不快の言葉が聞こえざる間は、親切けんそんにして心静かなり。おのれに不快の言葉が聞こえたる時に、その人の真実が知らるるなり。
 
ビクらよ、われは衣と食と住と薬とを得つつあるがゆえに口も行いも柔和なるビクを、まことに柔和なるビクとは言わず。そのビクがもしそれらを得ざる時は、口も行いも柔和にあらざるかゆえなり。
 
法を尊び敬いて、口も行いも柔和なれば、われはそのビクを柔和なるビクと言うなり。
 
ビクらよ、すべて言葉には、時にかなえる言葉とかなわざる言葉と、事実に合える言葉と合わざる言葉と、柔らかなる言葉とあらき言葉と、利益になる言葉と利益にならざる言葉と、慈しみのある言葉と悪心をもてる言葉との五対があるなり。
 
おんみらはこれらいずれの言葉を受くるも、『わが心は変わらず、けわしき言葉はわが口よりもるることなし。同情とあわれみをもちて慈しみの心に住むならん。ひそかにも怒りを抱くことなし。』と学ぶべきなり。
 
ビクらよ、たとえいやしき盗賊が、おんみらをとらえ、両刄の鋸をもちて手足を切断なすとも、心を乱すなればわが教えを守らざるものなり。かかる時も『わが心は変わらず・・・ないし怒りを抱くことなし。』と学ぶべきなり。
 
ビクらはこの鋸の譬をくりかえし心に思い浮かべよ。そはおんみらの永き利益、幸福となるべし。」

南伝九巻中部第二一鋸喩二二三頁

https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキング