全現 第204号  拝去結論は生き方学

   「生き方学基本」
     何を見 何を考え 何を目指すか
     この三つは一貫してなされねばならない
     そこから出てくるのが生き方学となるものだ
      観察 判断 目的はいかにあるべきか
      学習基本として繰り返されねばならない
      生き方も学として行うものだからだ
     学習工夫はいかに展開されるべきか
     己自身において実践されねばならない
     こうした生き方において喜びが実証される

   拝去結論は生き方学
 「生死を超越する」「絶対のおまかせ」一口に云えばそうした所であろうが、それはまだ観念の世界である。かりに死後は法の世界、神仏の世界に行く行かされるにしても、生きて肉体がある以上、何もしないという訳にはゆかない。最低、口を動かして喰わねばならない。条件が善かろうと悪かろうとこの最低は行動化せねば生命では無くなってしまうのである。
 
死んでからどこへ行くかが第一関心で、第二第三が無いと、先日の様な信仰的集団心中まで起きてしまう。第一関心が満たされたならば、その様になった自分は、その与えられた生命や宗教なり価値観に対して、どの様に感謝し、どの様に自己の上において与えられたものを全現してゆくか。これが第二関心になってこなければ、第一関心の意味合いも薄弱なものになってしまう。
            
それを平たく云えば、くぐり抜けてきてどう生きるかとなる。仏教者として云わせて貰えばその第一例が、釈尊の一宗教者としての生き方である。真理(縁起~相関法)を悟られ、第一関心を満たさ たから、直ちに第二関心の生き方に入られた。こうして生き方を四十五年間生きられたのである。仏教者としてこの生きる事実を知らぬ中はともかく、知った以上はそれを考えざるを得ない。考えるという事は学ぶという事である。それは第一関心と第二関心にまたがる、一種のセット思索である。信仰には教え内容が濃厚であるとは限らないが、宗教は教えだから理解を通すという点で理路整然。
 
人間の在り方の理解、在るべき人間としての崇高目的、これらが理路を持った体系であるとすればそれは学である。しかも実践や自己実現を予想する、人間としての立体的な学である。統合生命としての、柔軟にして確固たる生き方の学。これはまずもって礼拝から始めざるを得ない一つの権威である。
 
この様に釈尊原始仏教を通し、後の釈尊の精神と行動(宗教活動)に帰れとして種々展開された後期仏教を通し、仏教とは何かを私なりに結論実行化する様になった。
  
「真の仏教とは、真理真実を学習、体験化し、生活化して更に正導行動へと自己全現してゆくものである」
 
これを一口に云えば「生き方学」と名づけられよう。そこに何百万年と生き継いできた人類の、模索結集がある。これが老屋千暖荘を拝辞、拝去するに当っての総結論である。
 
今、タイプを打っている最中にサッシュドアーをこの、新居?に運んで頂いた。これで印刷場をかこむ事が出来、再出発となる。
 
小学校の門より三百米、隣家から四方離れ、山に沈む見事な夕陽が見られるこの高台は、静けさそのもので、対話通信専修の場を与えられた事は、善師善友各位ならびに一切の恩恵によるもので、解いた荷から「聴風望山」の拙筆を取り出し、驚いた次第でもある。