全現 第204号 自然が入ってくる

        「野性味」
     地面に降り立ったツグミ
     エサをついばむたびに頭を持ち上げ
     あたりを警戒して気をゆるめない
      野生はまさに野性味そのもの
      ひたすらに生きると言う外はない
      そこには気取りや戸惑いなどはない
     人間が引き継いだ野性味とは何か
     生きることの意味実現において
     ただひたすらと言う事に違いない

   自然が入ってくる
まとまったご支援御施を頂いたので、北側あかずの間を四畳に広げ、サッシュドアーにして斎室兼タイプ室にする。こうして北面が開け裏庭に対坐する様になると、自然がどんどん入ってくる。
 
それまで朝からボウボウと云う音を聞いて、近くの高校の学内放送とばかり思っていたのが、何と山鳩の声だったのだから、思わず苦笑したものである。やがてその山鳩たちが隣の墓所の大木に巣を作る様になった。羽根はなかなか渋いキジ模様のしゃれたもので、お宮の鳩のようにせかせか歩きなどはせず、適当な優雅さを持っている。ところが巣作りの時期ともなると、地面に降り立ち、落ちた竹の小枝をくわえては運び、何と三十秒ごし位に運ぶのだから感心せざるを得ない。まさにそれは野性である。
 
地面に降りて、ちょんちょん跳び歩きしながらツグミはエサをついばむ。しかし見ていると、ついばむ度に頭をキリリッと持ち上げあたりを見渡してからエサをのみ込む。これを省略する事はない。どんな時でも警戒を手抜きするという事はない。

茶の間でテレビを見ていた時、玄関側と台所側と二回、イタチが入ってきた事がある。何しろ近眼だそうで、頭を持ち上げ私を認めてからおもむろに立ち去った。この老屋は駐車場に変わるそうだから、このイクチも住めなくなるであろう。青大将も一匹居たが、この十年見かけなくなった。
 
毎朝五六羽でやってくるヒヨ鳥は楽しいものであるが、これも巣作りとなると真剣な様である。シノ竹の枯れた皮をくわえ千切ってゆくのであるが、三枚位、うまく落とさぬ様くわえ直して運び去る。
つまり能率思想がそこにあるので驚いた次第だ。魚などの性殖は本能的な反射運動と教えられるが、単なる機械的な反射運動だけでない野生の行動営みを見ると、何かもっと大事な事を教えられる様な気がしてならない。
 
考えもせずにパツとやれる事を本能的と、何かあまり価値がない様に云ったりしやすい。だが本能は一度や二度たとえ何百回くり返えしてみた所で、本能として定着するものではない。本能となるまでには何万年かのくり返えしが入っているとせねばならないのである。本能をもし軽視するとしたら、それは人間の文化的なごう慢と云わねばならないであろう。人間そのものも、何億という仲間の精子を振り切ってただ一個がゴールイン、目的達成をした結果である。
 
そこに文化的な思慮が入る余地はない。いや無かったとアイマイにせざるを得ない生命操作が行われる様になった。そうした点においても、人間の真の在り方を考える上においても、単なる観賞でない自然観察が必要になってきた。そうした場を与えられて、文化的になり過ぎた、きらびやかな宗教から、生命の原点から思索する、釈尊原始仏教追体験出来た事は、予想すらしなかった喜びだ。