全現 第204号  心願をくらまさず

        「道統生命」
      人間は恐ろしいまでに残酷であったり
      自我欲を越えた聖なる意識を持ったり
      いかにも矛盾に満ちた存在のようだ
       無知無明から発したこの生命が
       真知慧明に転じるのは容易でないが
       それは一本の生命衝動であるに違いない
      その一生を酔生夢死に終わらせるか
      自分なりの心願を立てて生きるか
      この道統生命の一端である事に違いない

   心願をくらまさず
子供の時から絵を画くのが好きで、クレパスか何かで木と根っこをべったりと油絵様に塗り、先生にほめられた記憶があるが、それから黄金バット月形半平太などの塗り絵、ゲーリークーパーの似顔絵と、お定まりのコースから人物、裸婦と進み、骨格解剖図を模写してきて、関心が人物から外れるという事はなかった。近眼のために外景がそんなにあざやかには見えないという事もあるが、結局は内向的であったからに違いない。

美術に深入りせず、宗教に入ったのも、いわば自意識過剰という性向からではないかと考える。神経質であったり不安症であったりする方ともかなり対話してきたが、こうした方は自然が見えない様である。この老屋の庭には古い木が在り、中でも三本のビワの木、二本の大きなセンダンの木がある。早速これをもじって千暖荘と名づけてはみたものの、次々に出来る新しいご縁の方々の対応に忙しくなり、収入かせぎで指圧に毎日出かけるから、裏庭の自然をながめたりする時間も余裕も無く十年も経つたであろうか。
 
三宝聖典」(原始経典の現代語抄訳)を自家出版するというのが私の心願・初心である。いつまでもそれに手が着かないので、それが「自分を引っ張ってゆくものだね」と信三師から云われた事があるが、まさにその通りになっていて、まことにお恥かしい次第である。多くの方々の多大なご支援を得て、タイプも自動化し、オフセットも全自動と、印刷能力を一式そろえ、さらに性能アップし、ひたすらリース代を支払う事を続けてきた。
 
固定収入もなく、ぎりぎりの生活でよくも長い間やってこれたものだと、驚きもするが、それほど他の一切から活かされてきたという事であって、私の力などがどこに介在しているのかまるで分からない。初心刊行のための毎日々であったから、自然を見る事もなかったというのは、まさに心にも余裕がなかったという事であろう。
 
目的を立て、その実現に向って全力を尽くす。この場合、私がそれを実行実践するという事である。この二十数年、たった一つの目的の為に、時間がかかりすぎるのはどうい訳か。
 
私が目的を立てるではなく、目的が私を引き立ててくれている。これが私の実感会得である。一つの目的を立てた者は、どの様なプロセスを持ち、どの様な恩恵を受けるものであるかという事を、私は実例化されているのではないか、とこの頃は考える様になってきた。天才や優秀者の目的達成例は数限りなくある。だが私共の様な凡なる者の達成例というか、プロセス例はそう多くはない。
 
いわゆる「凡夫」ではなく、どこにでも居られる凡なる者にとって、真に共通感情を持てるのは、私の様な者かも知れない。その意味では私は輝ける存在?なのかも知れない。心願・初心をくらまさず、ではなく、心願初心が私をくらまさず、みつめているのである。