全現 第204号  環境作り

     『風を』
 風を起こさなきゃならない
 意識的に駆り立てる様にしてだ
 それは凡なる者の義務でもあるのだ
  車をスタートさせるにしても
  まずはエンジンを吹かせるものだ
  機械でも人間でもいきなりは走れない
 つまり助走を大事にする事
 環境作り気分作りを大事にする事
 これで凡なる者も風を起こせるはずだ

   環境作り
三宝会を始めたのは八景水谷という水源地がある清水町で、熊本市内であるが北端に近いので、ご縁が出来た人も一寸来にくい。まだマイカーも少なく郊外電車に乗って来るのでは、いかにも遠い所に行くという感じにならざるを得ない。こちらから市の中央に向う場合は何かをついでにという事もあって遠さを感じない。
 
同じ距離に対して遠近の感じ方が違うのは自然の情であろう。日本のお寺が人里を離れた山に建ち、しかも大衆を引きつけたのは大した威力である。これに較べてバラック建てのパーマ屋をしながら法話をするのだから全くもって人を引きつける威力などはない。
 
今の若い人ならこのバラック建てというのが分からないかも知れない。これは私が間取りプラン(設計ではない)をし、にわか大工さんとわが家族四人で打つつけ建たものである。壁は全部板、屋根はルーフィング。これは屋根と云う英語だが厚紙にコールターを塗ったもので、これはくっつかない様に粉をまぶしてあるから、この上に乗ってすべらない様に用心をしながら釘を打ってゆく、これは足がこわばるが、やった!という快感にもなる。
 
そこでまず例会を市内の会館で始め、師水野弘元博士に講演を年一回お願いする様にする。そして市内での借屋を、藤崎八幡宮にご祈念し始める。仏教者なのに神様にお祈りするのはおかしいではないか、と思われるかも知れない。又その様なお祈りをするのは本当の信仰ではないと思われる方も多いであろう。
 
「……祈らずとても神や守らん」式が大体、日本人意識と云ってよかろうから、祈念しそれに応答があるという体験を持つ方はごくごく僅かのようである。三宝会を始める前の十年間は祈念や覚り、われ様々の学習体験体得の期間でもあった。仏教の教義理論だけで、お寺でも布教士でもなく、しかも原始仏教を主体にするという仏教活動が始められるものではない。そこには「こうして・・・こうなつた」という実証が無い事には、希望観測だけでお金を見当てにしない仕事をスタートさせる事はまず出来ないであろう。
 
何故八幡様なのか、という事であるが、これはその地域の守りがお役目という発想からである。たとえ仏教者であろうとなかろうと、その地域にお世話になるのであれば、相当の礼を尽くすのがむしろ当り前という事になるのではなかろうか。
 
こうして間もなくこの地に近く、人が出てゆかれた後を見付ける事が出来た。こうして徐々に多くの縁を広げる様になったのだから、すべてに感謝しても感謝し尽くせないという思いである。
 
自分から立ち上ったのか、その様にせしめられたのか、そこははっきりしない。何分にも行動型でない私が行動を起こすというのは、よくよくのものを感ぜざるを得ないからである。