三宝 第168号 尊敬と供養 その二

法に従いて行う

 信仰とすると信ずる心の問題で行動は問題にならない。
 宗教とすると考え方・心の在り方・行動の仕方=生き方となる。

この様に二つを並べると、自分はどちらを取るかという自分の選択を問われる事になる。もし選択をすれば自分の責任になる。選択行動をすればその結果は自分に来るからである。
 
日本式仏教は宗教としての真髄が語られている。従って自分のはからいや選択を越えたもので、仏や本尊、あるいは自然から与えられるものとなっている。これは多少、自分なりにあれこれやってみての境地なのだが、このあれこれの初歩段階をぬくというか否定してあるから、少々関心を持つ位の人は分からない分からないとぼやき続けることになる。もしこれが教育者のやる事だったら失格だ。
 
さて目を転じてというか、オリジナル仏教だとどんなだろうか。おシャカ様もその弟子も仏教教育者として失格ではない。という事は分からせる方式をとっておられたからである。

 「正導の宣言」-(三宝聖典第一部第二一項)-その時世尊、ビクらに命じたまえり。「ビクらよ、わ
れは人天の一切のきずなより脱したり。おんみらあまた人天の一切のきずなより脱したり。
  ビクらよ、おのおの各地に正導の旅をせよ衆生の利益のため、世間をあわれみ、人々のまことの幸
福のために正導の旅をせよ。
  (二人して一つの道を行くなかれ)初めもよく、中もよく終わりも よき、意義と文句をそなえたる法 を説け、完全にして円満なる清き 行を示せ。人間にしてけがれ少き者あり、法を聞かずば亡びんも、もし聞かば法を悟るべし。
  ビクらよ、われもまたウルベーラのセーナ村に至りて法を説かん。」

この一文(アーガマ経=原始経典)を読まれて驚かれるであろうか。総ての人を救うぞよとか、一切は如来の現れであるなどと言った観念的でない、生きた人間としての理想の生き方=三宝仏教の真髄が語られている。真髄とは実行実現=全現である。
 
妻子愛欲・地位名誉などで足を引っ張られていては、とても釈尊の指示通りには動けない。まさにその通り、これは聖者の生き方であって信者の生き方そのものではない。最大に尊敬を払うべき人々の生き方である。これは正に理想である。理想を体得した者は、その理想の意義内容をしかも誰でも分かる様に文句言葉を充分に用意して説けとある。所がそれだけではない、完全にして円満な清らかな生活行動をせよ、である。これを尊敬せずに居られるだろうか。
 
しかも法を聞けば次第に悟ってくる様な人はたとえ少数でも必ず居る。そういう人々こそ実際的な仏教対象だという。こうして釈尊白身、名も無き一寒村に向かわれた。ブッダになられて間もなくの事である。私事になるが、三十年前、三宝会を起こし仏教活動を始めたのは、この釈尊の言葉に従ったからである。仏教とは「導」と受け取ったからである。
 
釈尊は四十五年間の仏教活動を終えられるに当たり、
「法に従いて行うものこそ、如来を最上に尊敬し、供養する」と説かれる。行動なき観念論になって立ち消えしてしまつ、真仏教の行く末を二千五百年も前、案じておられたのだろうか。行動なき観念信仰から、自己を証明してゆく生き方の宗教へ、考えてみれば何と世界に類例のない一大変革ではないか。
 
この様な事実真実を内容とするが故に、弟子信者に対して、「尊敬と供養」をその一生を通し呼びかけられる。後は私の問題である。