三宝 第65号  『仕事の本質』 宗教と仕事の一致

[宗教と仕事の一致] 仕事にしても、生きる目的にしても、今や選択を迫られているのである。有意義なしかも喜びに満ちた人生を送るか、みじめな老人として一生を嘆くか、それは決して先にのばしてよい問題ではない。今すぐに考えねばならぬことである。
 
仕事から人生へと考えを進める人は、何か値打ちがあるかという、人生価値を考えざるを得なくなる。この時、人は宗教の世界に入ったのである。従来、宗教とは、偉大な、あるいは不思議な神仏の力にすがり、救われや幸福を願うものと考えられてきた。しかしそれはあまりに一面的であり、現代人の要望を満足させるものではない。そこで簡単に、仕事と宗教を比べてみよう。 

○宗教―人間の過去、現在、未来を真理によって統一した人生観によって総合し、理想実現のために生き抜くための教え。

○仕事―右の人生観によって仕事をし、仕事によって、さらに人生観を深化し、理想を実現する実行。
 
宗教は教えであり、方針である。仕事とはその実行である。目的と実行、この二つは一組で切り離すことは出来ない。宗教は生命の根源に至りつくものとされ易いが、生命のその生きるということを真理として探究し、その真理―考えられる最高の理すじみちと―根源的生命―より真実を求める生き方―この理論と、生きるという事実との一致がなければ宗教とは云えない。死者の宗教というのはおかしい。また価値を考えず、ただ生命として生きることだけでは宗教とは云えない。
 
生きるという事実は、仕事を通してしかあり得ないから、仕事が修行であり、また、教えや信仰によって救われを感じるものは、感謝の仕事、実践をやらねばならない。仕事をすることによって、救われの実践がかみしめられるのでなければ、それは観念の遊戯といわれても仕方がない。
 
日本では、修行が「道」といわれ、真心をうちこんでする実行を、芸道、武道、茶道、華道などと呼んで尊重する。しかし農道とか商道とかはあまり云われていない。商人根性とか、百姓魂とかは云うが、日常の仕事そのものは道と云われにくい面があるのか。
 
仕事は誰でもやらねばならぬし、また一生やるのだから、仕事道というものは確立していなければならなかったはずだ。「仕事」とは初めに述べたように事に仕える。事とは事実である。事実を軽くみ、観念的なことを重くみるのは、偏りにすぎない。一切に仕えるということは、まことに素晴らしいことである。仕えることと読んでも同じである。
 
一切の事に仕えるためには、自己中心の我欲を捨ててかからねばならない。無心に事に仕えれば、必ずその事は成就する。たとえ成功するという結果が容易に出てこなくても、無心、無我の境地にゆきつく。それは商業であれ、書を書くのであれ、同じである。その時には、喜び、楽といった、ありきたりの心境を超越している。無我の行、無我の仕事が、無我の境となる。
 
釈尊は、「願うことなし、なすことなし」と云われた。我欲によって、こうなりたいからだからこうするということがなかった。だから四十五年という長い間、人々を真理をもって導くという仕事、実践が出来たのである。
 
まず、仕事による喜び、働く幸せをつかみ、次第に自分を多様化し、いくつになってもやりたいという仕事を育て上げ、日々を感謝して、仕事してゆく。別にレジャーもいらなくなる。マイペースが出来てきて、ノイローゼも治ってくる。
 
そして真理と仕事にしぼられてくると、自己を単純化し、さらに無我化し、ただひたすらに理想に近づいて生きるという、人生の価値の実現に、生き抜いてゆくことになるであろう。共々にそうなりたいものである。