三宝 第65号  『仕事の本質』 専門化と総合化

「専門化と総合化」 本の社会全般を見渡すことができないにしても、家庭の内外を見れば、ずい分と社会が高度化しているのが分る。電気製品の数々、文化住宅、飛行機、ヨットで遊ぼうというところまできている。これは農業国から工業国へと変ってきた現れである。政府の農業政策がよかろうが悪かろうが、日本が工業国化しつつあることは、どうにも変えられないことである。だから公害問題が起きても仕方がないというのではないが、常に転変してゆく歴史の流れを、ただ頭の中で反対してみてもカラ回りにすぎない。
 
農業にしてもすでに工業化している。耕耘機で耕し、化学肥料をふり、ビニールハウスの中で、温湿度を調整し、出荷時期まで調整しようとしている。
生産し販売するということでは工業生産と何ら変わらない。工業の方には加工面が多いが農業にはこの面の考えが足らない。出来すぎた白菜などは畑で腐らせてしまう。情報の不足と、協力意識の低さなどに、農協などの指導力不足。そして最大の問題は、農業青年(後継者)の自立意識、考える力の欠除、こうしたことが農業の体質として少しも改善されていないということ。
 
アメリカの農業人□は全国民の六%、そして全米の食料をまかない、さらに世界に一億五千万人分の食料を供給しているという。この高能率化は完全に工業的生産と云えよう。こうしたことは、農業が工業化し、専門化することを示している。熊本県の農業白書によると、専業経営は三十五年で七万五平戸だったのが、四十五年には三万八千戸に減り、反対に三十五年に九万戸であった兼業農家は四十五年には十一千万戸に増えている。専業農家は農家四戸のうち一戸の割合。しかし一・五ヘクタール以上層が増え、それ以下の層は減っている。つまり零細農家は、脱農せざるを得なくなっている。三十五年に三十万だった農業従事者が、四十五年には二十四万四千人に減っている。           
 
兼業農家が増えるということは、農業従事者が減って、残った少数が、高能率でやらねば立ってゆかぬということで、ますます専門化し、大規模化してゆくということである。そして西瓜を作る人、菊を作る人と専門化はきりがなく進む。しかし総合化という面を忘れていると必ず行き詰まる。米価問題とかグレープフルーツの自由化反対といった時にだけ協力しあうというのでは、体質として衰退せざるを得ない。
 
家庭の問題にしぼっても、夫と妻、子供はそれぞれ働き方も役割も違って、専門化していると云える。皆が同じようになれといっても出来ることではない。しかしその手で、お互いを認め、尊重しあいながら、よき家庭を作るという総合化がなされねばならない。つまり、あらゆる面で、専門化と総合化はほどよく両面共に考えられてゆかねば、もともこもなくなるということになる。「専門馬鹿」という言葉があるそうで、専門以外の事はまるで知らないということは、その専門もあまり高いものにはならないとされる。総合的なよりよき人格者のみが、価値ある専門家ともなれるということで、仕事を考える以上、この人間としての総合化を常に考えたいものである。
 
専門化とは、単一のことを繰り返す、機械性ということにもなり、総合化とは、広い人間性による創造性ということでもあろう。
 
人間は創造性を失えば、息苦しくなるし、機械性を持たねば、生活収入にこと欠くということになる。そしてさらに選択能力も使わねば、どうしてよいかも分からなくなる。世の中が豊になったということは一面、繁雑になったので、色々なことを要求をされるので、単純に生きることはいよいよ難しくなったと云える。