三宝 第65号  『仕事の本質』 仕事は手段か目的か

[仕事は手段か目的か] 別でもあり、一つでもある。私は仕事をするのが楽しみであり、生き甲斐だ、収入は第二であるという人もいる。その人は仕事そのものに喜びを見出し、仕事を目的としている数少ない、恵まれた人である。しかし大部分の人は、仕事によって収入を得て、そして幸せな家庭なり、生き方をしようとする。

これらの人にとっては、仕事は幸せを得るための手段である。生活費が充分にあれば働きたいとは思わない。しかし実際問題としては、そんなに余裕のある人は少ないから、収入を得る手段として働く。その働くことの中に、自分でも気付かないが、これで生活が出来るのだという安定感や、今日はこれだけやれたぞといった満足感を得ている。

手段として働いていても、いくらかはその事に喜びを見出して、生きることの目的となっている。
 
また、さきの人でも、もし収入が全然ないとすれば、はたしてどれだけ、その仕事に熱意をもてるだろうか。また長続きするであろうか。かりにそうしようとしても、生活が成り立たねば、続けてゆくことは出来ない。そこで少々の物の貧しさがなければ、働く意欲もわいてこないし、働く喜びも浅いものとなる。この仕方なしに働くというところに人生の妙味があるのではなかろうか。

私達がしていることで、ある目的に誘導されて、努力する、その努力、訓練が実は大事ということが多い。目的に到達しなくても立派に役立ったとして、目的が捨てられることもある。
 
学校教育で誰しも百点とれることはない。

 ○努力目標百点 ○実際目標六十点
 
しかし五六十点が当たり前とすれば、努力目標はだまかしということになろう。努力目標と実際とが近いことが望ましいのは勿論である。

問題は知識的問題は点数がつけられても、人間価値となると点のつけようがないし、果たして指導する側に評価する資格があるかどうかという問題もあり得る。

まして学校を出て自己訓練、生涯教育という段階にくると、人生目的には点数のつけようがない。それは人によってあまりに相違があり、多種多様で、比較しようもないということになる。

それどころか、人生目的すらまるで持てないという人も無数にいる。したがってまず、人生目的(どんなでもよいから)を持つことの呼びかけから始められねばならない。
 
その点、人生目的を、宗教目的と一致させることが出来るならば、比較したり、話し合ったりすることもづっとしやすく、かつ効果的となるのではなかろうか。