浄福 第68号 人々の頂点にある神々

人々の頂点にある神々

以上のように考えてくると、ボン天が釈尊に法を請うた話は、解釈が出来にくくなる。そこでかどうかは分らぬが、現代の仏教学者の一部は、それを釈尊自身の内なる声と捉える。つまり内なる声を神の声として文学的に表現したもの、表現上のテクニックとするのである。この点に疑問を持っていた私は、仏教上の神々の位置を考えてみた。釈尊は、天地宇宙人間を作ったという意味の創造神というものを否定しておられる。因と縁によって人間化してきたという理に立つのである。インドはもともと創造神(ボン天もそうである)を立てるが、又一方では、人間も輪廻するので、善行を積めば神(デーバ=天上)に生れ変ることが出来ると考えていた。つまり人間が神になるという考えと、さらに人間は神であるという考えまで持つようになったのである。このインド人一般の心情的(合理的とは云えない-神と人間との明別される規定解釈がないから)信仰心を釈尊は一概に粉砕してしまうことはなさらなかった。そこで仏教は論理上、創造神は否定なさったが(現時点で証明不能であるから存在するというふうに捉えられている創造神を否定。存在するかしないか分らないとする意味合いの創造神は否定も肯定も出来ない)人間がこれから成る神、あるいは成っている神、つまり上等な人間というものは認められた。つまりこれば最高の神でなく、人々がなる神々、あえていえば上等な霊的存在を神とされたのである。その神々は、善行を積んだ善き存在ではあるが、未だ真理を知らない。いわば真理を学習すべき学人の立場になった者とするのである。
 
そこでサバ(この苦しみ多き地上社会)の主というか、代表という位置を与えられたボン天(創造神から格下げ)は、真理法を求める人々の代表、最高者となる。いやむしろ、人間としてのある姿、法を求める求道者としての輝やかしい地位が与えられる。これを今日風に深層意識として考えるならば、人々の心の奥底には、誰しも真理法を求める意識が無意識的にあり、その深層意識と釈尊の慈悲心とが深いところで交流したとみるべきかも知れない。
 
神々というのは、心霊的存在で肉体表現をするのではないが、時には、姿を現わして問答するとされている。人間というものを「いのち」の存在としてとらえるならば、単なる表面意識や肉体の面のみに限定して考えてはならない。心理学上の潜在意識といったところをもう一つ掘りさげた、いわば自然宇宙につながるところの深層意識というものの当体である人間を考えねばならないであろう。
 
人間の本質を哲学としてまとめられた釈尊の真理論を、単に知性の開示として受け取ってしまえば、いわゆる哲学で終ってしまう。それを宇宙的なひろがり、裾野を持つ深層意識に投入し、その意識の転回、浄化をはかる所に本当の宗教が現われてくる。神々を単なる文学的表現としてとらえたり、人間とブッダとの中間的存在として考えていては、法の流れが一貫してくることにはならない。ブッダと神々と人間とが深層意識に於いて同質、同系統のものであるとガテンがいった時、このささいな存在である私が、輝やかしい法の場において生かされる存在であるということに、確信を持てるようになるのではなかろうか。


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