やる気と人間性 ある経営コンサルタントとの対話 #14(自分のやりたい事を持つ以外にやる気は起きない)

 自分のやりたい事を持つ以外にやる気は起きない

そういうふうでやる気を持たないというか、頑張るという経験を持たないいうのはずっと幼児期から学校時代通してずっとそう来ているということの前提に立たなければならない。だから今、目の前におる人間はやる気を持たないという形を取っている本人は、被害者なんです。

そういう育てられ方、そういう社会環境に生きて来た、学校でも勉強せい勉強せいで、親からも言われ、先生からも言われそして自分がしたいとも思わない苦手の、自分が興味を持たない勉強をずっとやってきた。だから一所懸命やらないわけです、最低限しかやらない。点数を取るためにしかやらない。最低限の勉強しかしない。最低にやる最低にやるということで自己防衛してきた人間だから、そういう人間理解に立たないといけない。ということは自分のやりたいことを持つ以外に人間はやる気を起こさないんです。そうするとやる気を起こさせるために、やる気を起こすというのは、自分につながること、自分の喜びになることしかやらないということです。苦しいことはやらないということです、今の人間は。喜びにつながることしかやらない。

喜びというのが先にあればその途中に苦しみがあってもやるわけです。ある程度の苦しみがあっても。だから喜びをしっかり味わせなければならない。子供時代にそういう育てられ方していないから、今からでもやり直さなければしょうがない。今、大体中学二、三年で止まっている。心の持ち方は。理知的には進んでいる、大学まで一応行っているから。しかし感情的には中学二、三年で止まっているんです。

苦手なことでもやらねばならないことはやるというようなのは心なんです。理性じゃないんです。しかしそういう訓練受けていない。受けていないということは育っていないということ。小学生の時のやりたい事だけをやらせ、やりたくないことはやらないで小学校は通ってしまう、中学校になってやりたくない勉強をやらなければならないが、やりたくない事をやった人間は、上に成績よく行く。やりたくないからやらなかった人間はもう最低で、最低最低でいくわけでしょう。やりたくないことでもやるという、自已克服というか克己心というか、そういう訓練を自分なりにした者は極少数なわけです。少数だからそれを前提にしてもしょうがないわけです。やりたくなくてもやれというのが精神主義なんです。

ところがそれは戦前は通用したわけです、だから今の中年以上の人はやりたくなくてもやれで通用した。しかし今の若い人はやりたくないことはやらないという基本に立っている。だからやりたくなる、すなわち喜びにつながることしかしないという基本に立たないといけない。それでは喜びというのは何か。自分が出来る、自分が分かる事は喜びなんです。分かれば喜びなんです、出来れば喜びなんです。いまガッツポーズやるでしょう、あれは出来た時、出来た時の喜びの表現がガッツポーズ、これを小学生がやるのはいいです、今大人がやっているでしょう。年寄りまでやっている。これは幼稚化です。年寄りがやっているあのガッツポーズなんか恥ずかしいです見てるほうが、それだけ低年齢化しているということ。精神年齢がどんどんどんどん下がって来ている。


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