仏教による幸福への成功方式 #81 完(第十一章 三寶運動)

第十一章 三寶運動

仏陀はあなたに期待す

仏教は一応個人の苦滅という目的をかかげて幸福を追求するものではありますが、仏教的世界観、人生観が段々熟してくると結局、他の人々の幸福を願うより外にまことの幸福はないというところに行きつきます。仏陀世尊は四十五年間、衆生の幸福の為の遊行を続けられたのです。それより二千五百年間数えきれぬ多くの仏教徒が、在家出家の区別なく仏陀の念をあたため、確認し、追体験し行じていったのです。この利他の救導は単なる観念的なものに留まらず、衆生の心身のすべてに働きかけ実効をもたらす施の実行だったのです。
 
世尊は三宝のないところに仏教はないと常々説かれました。聖徳太子によって三宝の仏教が開始されたにもかかわらず、日本では三宝の言葉すら影のうすいものとなり、日本独自の仏教が発達して今日のていたらくはすでに皆さん御承知の通り。高徳の日本僧侶が仕でかした日本仏教から、やがて個々の有名僧侶の名と体験を通す必要のない、つまり無名の仏教徒によって継承されるべき、真の三宝互具の仏教、通俗的にしてまことの仏陀世尊の仏教へと大衆が開眼するのも間近いことでしょう。もし英明な方でなければ仏教の真髄がつかめないものであれば、大衆には無縁のもので、世尊の偉大さはない。無智無明の大衆が見事に、いつとも知れず啓発されてゆく可能性こそ比類なき仏教のありがたさということでしょう。無名の大衆が伝承する三宝運動こそ仏陀の施行であり、少なくとも我々大衆に与えられた仏縁なのです。この仏縁をありがたく頂き、折あらば尊者導師に救導を受け、又まことの求道者を供養し、我らの師として迎えねばなりません。
 
それにしても愛欲のちまた、重労働の寒村に居てどうして、いつ尊師にめぐりあえるというのでしょう。あり余るほどの寺々の屋根は朽ちてゆく。み堂は閉ざされ家々には経文の一冊もない。一度家を離れてはすでにわが家の宗派も知らず、自ら帰依するところもない。これが日本仏教の総決算です。
 
もし世尊が今、この世に再現されたなら、どんな挽回策を樹てられるであろうか。一体どの日本の宗派の方々が世尊の通りの実行をしていられるのでしょうか。なるほど世尊の精神を受けついでいると言われるかも知れないが何故世尊の通りの実行が出来ないのだろうか。火も恐れず死もいとわず、粥食に甘んじて精進するまことの先師たちは、何故大衆に世尊の言葉を分かり易く伝えなかったのか。そもそも日本式に改変せねば不完全な仏教であったのでしょうか。今や各宗派は一万以上の末寺を組織して所帯やつれのてい。ここで村々町々に世尊直系の仏子善友を送ることがさし当たりできないとすれば、第一にせねばならぬことは仏教聖典仏陀の言葉の日本語化とそれの一般家庭への普及ではないでしょうか。今迄は名僧の頭脳と道心によって経典は取捨選択されて、大衆はその一分にもふれることなくそうした名僧の名言のみ聞いてきたのであるが、すでに大衆は字を知っている。あらゆる聖典を日本語化し、誰でもいかなる凡夫でも読めば分かるという聖典とし、これを各家庭に普及すれば、図書館はこれを備えつけるし、各婦人会はこれをグループ討論にもちこみ、PTAにて討議され、宗教的人生観を持たぬ教師は赤面し、寺々は慌てて教学の再勉強をし或いは自ら職業的僧侶のあり方に反省し、大衆によってその支持は明確にされ、世襲でない、熱意と道心ある仏子が寺を運営し、グル-プの求めに応じて世尊の正法を説くようになるでしょう。今日、日本の大学の教授、政治家、実業家というインテリクラスが全んど無宗教的であるのは世界的奇観。日本的カスミのかかった絶景。大衆は地位も名誉もそして財産すらないだから宗教を求めざるを得ないし、右左を考えずにつき進むことができるのだ。そして大衆ほど皆の力を知り、頼り、祈り、その力を合わせることを知っているものはない。あなたはそうした大衆の一人であり仏縁に恵まれた方なのです。あなたに仏陀世尊は期待をかけておられるのです。世尊の仏教再編成という大業に参加することが今後のあなたの幸福のポイントです。
 
宗派のある方は、それをもっとつっこんで、宗派のない方はそのまままっすぐに世尊のふところに飛び込んでみようではありませんか。安心と言い覚りといってもこの仏陀の慈悲施をうけついで、仏子善友となり、仏陀三宝がこの世によみがえり、まことの浄土が物心一如の世界として全人類の上に体現され、全き平等の楽土となるよう、無限のいのちをかけてやりぬくより他に仏道がありましょうか。その為には、時間も空間もつきぬけて、自らの機根の貧しさも打忘れ、み仏のいのちの一分となりきって、ともかくやることだ。
 
あなたと、あなたの仲間の上に夜明けが近づいています。寂として力に満ち満ちた暁が間近かなのです。世尊が覚りの瞬間を暁天の星のまたたきにかけたように、今こそあなたとみ仏と一体となる聖なる時なのです。あなたのその机が尊い記念となりますように。
                           (終わり)

(あとがき)
 沢山の仏教聖典の中から、八項を抜き出して、ダンマ三宝仏教原理として現代風に、深層心理学精神分析、ヨガ心霊的要素等を折り混ぜて、実生活に結びつけるという試みは出家側から見れば邪道のように見えることでしょうが、大衆の一人として大衆の求める一面をさらけ出して参考に供する次第。実例において、病気の心因調べに片よりましたが、家庭のもめ等も同様の調べ方にて解決は常識以上に確実となりますので工夫して下さい。猶、心体日光呼吸食の不正による血液の不浄と病気は即日即効の温法があるのですが、病気治しに片よるので省きました。あなた自身で出来るもっとも安易、安価な三宝健康法を知られ十年二十年の病苦からぬけ出されたい方はどうぞ著者まで問い合わせ下さい。

 さて大衆は宗派性にすっかりうすれて段々世尊に直結するよりしようがないところにきています。三宝になじみよりよき師に逢われ、まことの仏弟子となられますように。裸でぶっつけ合って精一杯投げ飛ばされてみたいですね。この本を書き終わって言い訳は止め、次の勉強、正念正定と正行にとびこみましょう。ろくに反省する閑もなく、力もなく背伸びして、病苦や苦悩者の相談を共に苦悩し、祈念し、なけなしの底をはたいて三宝運動をする私ははた目には随分危なく見えることでしょう。皆様の御忠告や反応が私を力づけてくれます。御遠慮なきお便りを強くお待ちします。

 あなたのすべての欲求が正善欲求となり、サンガの一員となられますよう、そして再度ここに仏陀三宝のよみがえりを祈念致します。併せて出版社各位に多大の感謝をささげます。

 奇なるかなこの原稿の浄書が終わりたるは四月七日、ルンビニ園での四月八日をはるかなものとしてはいけない。世尊は力強く吾らの前にお姿を現じたもうでしょう。
                        ナンブッダ、ダンマ、サンガ 合掌礼拝
                                昭和三十七年四月七日。


最後になって初めて、原稿の一部を削除しました。「世尊の仏教再編成という大業」の説明部分です。老師の存在抜きでは絵空事にうつりかねなかったので、やむを得ずの処置とご理解ください。-未到散人-

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