勤労の聖僧 桃水 #43(九、労働時代 その四)

2、勤労生活と引受人の問題
 
前述の如く、当時は勤労力過剰の時代であったが、また、当時は、治安の不完全なる社会状態であった。例を挙ぐれば、聖僧に対するその伝記の中に見ゆる、大阪の法巌寺一件の如きがそれであろう。法巌寺は無住の寺であった。それは屡々盗賊の侵入するためであった。
 
従って、当時に於いては、人に使われる場合には、確たる身元引受人を必要としたのである。それは、現代に於て、人に使わるゝ場合に確たる保証人のあることを必要とする以上に、当時に於いては確たる身元引受人を必要としたのである。当時の、聖僧と勤労生活の場合はどうか?成程、聖僧には多くの知人はあったであろう。しかしながら、聖僧は、その中の誰一人にだに、勤労生活に入る場合の、身元引受人になって貰うことは出来なかったのである。なぜなら、それら多くの知人は、僧侶としての知人である。故に、若し、如上の身元引受人を作ろうと欲するならば、それには一旦僧侶生活を捨てねばならない。そして、新しい生活に入った以後に於て出来た知人の中から、身元引受人を見出さねばならない。

3、聖僧脱走時の所持品如何
 
禅林寺脱走に際して、聖僧は、袈裟袋と桂杖とを持って逃げ出している。この事は、聖僧のそれらの物を必要としたことを意味している。然からば、それらの物はなぜ必要であったか?想うに、如何なる事情に基付いての故にか、聖僧は、一旦、身を黄檗山に落着ける必要があったのである。

4、聖僧の年令如何
 
なほ、前述の如き社会情勢を持つ当時に於てさえも、身元引受人を要せずして勤労することの場所もあったであろう。例えば、土工の群だとか、佐渡の金山に於ける坑夫の群だとかゞそれである。しかしそこでの勤労には、もはや、老齢期に属する聖僧の肉体は堪えられなかったのであろう。

5、聖僧の思想的苦悶如何
 
勤労生活と名利欲との問題に伴う思想的苦悩
 
勤労生活に入らんか、乞食生活に入らんか―この二つの生活のうちのどちらを選ぶべきかに就いて思い悩んだ時、聖僧は、勤労生活と乞食生活とを比較して、斯く想像したであろう。
 
勤労生活は名利欲を伴い易いという点に於いては、乞食生活以上のものであろう。人は欲のかたまりである。所詮、人は欲から身を逃れることは出来ない。故に、乞食生活に於いても、施し物を多く貰いたいという利欲が生ずるであろう、または、同じ仲間に名を知られたいという名欲が生ずるであろうが、それら名利欲は、勤労生活の場合は、乞食生活の場合よりは、一層身近に、人の名利欲に接しなければならぬと共に、境遇上から観て、乞食生活の場合よりは、自分自身にも名利欲は生じ易い。
 
あゝ名利欲!これのとりことなるために、人は仏道に生きられなくなるのである。仏道に生くる者は、出来るだけこの名利欲から身を遠ざけなければならない。そのために選ぶならば、勤労生活よりは、乞食生活を選ぶべきである。所詮、この世は欲のかたまりである。名利欲を捨てるとならば、この世を捨てるべきである。出家はこの世を捨てた人とは云えない。出家はこの世を捨てた積もりでも、この世の人が出家を捨てない、とすれば、出家はこの世の人である、しかし、乞食は、この世の人から捨てられた人である。従って、この世の人ではない。乞食は、名利欲を逞しゅうしようにも、この世の人並みにはそれの出来ぬ境界に身を置いている人である。従って、真に仏道に生きんとならば、乞食の群に身を置くのが最も身の安全である。
 
しかし、その乞食なるものは、如何なる方法によって存命しているのか?それは、名利欲を逞しゅうする人々の勤労に依ってよって生きているのではないか!されば、今、自分が乞食の境界に身を置こうとする心は、とりもなをさず、自分が名利欲を離れた生活をするために、人をして名利欲をたくましゅうさせることではないか、仏の道に生きたい自分の欲のために、人を仏の道に叛かしむることではないか?自分の罪障を滅せんと欲するがために、人の罪障を増さしてよいだろうか?それは仏の道に叛いた行為だ!自分が仏の罰を受けたくないために、人に仏の罰を受けさせてよいであろうか、否、仏の罰を受くるならば、皆と同じようにそれを受けたがよいであろう。斯かる行いが仏の所謂、慈悲でなければならぬ。としてみれば、やはり、皆と同じく名利を逞しゅうしたらよいであろうか?
 
茲に至って、聖僧は、勤労生活の中で最も名利観念の低い、市井の平凡なる勤労者の生活に身を置こうと決意するに至ったのであるが、直ちに、その思想を実践することが出来なかったのは、前説の如き事情の、そこに介在したるが故にである。
 
従って、聖僧が乞食生活を勤労者生活へと替えたことは、私の想像によれば、予定的行為なのである。決して、それは突発的行為ではない。
 
早い話が、仏の道に生きるためには、坊主の生活よりは乞食の生活の方がよいように思って、乞食の生活をする。ところが、また、乞食の生活よりは勤労者の生活の方が、仏の道に生きるためにはよいように思って、勤労者の生活をする。―それでは、高僧だとはいえぬではないか!斯くの如きは、思想的には、浅薄であり、行為的には、軽率である。斯かる浅薄なる思想や軽率なる行為は、高僧の思想や行為に見ゆるものと等しとは、想像することは出来ないであろう。


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