考える要領 (その六) 実行方式 解決原理

実行方式

目的が確立したと仮にします。そうすると段々実行意欲がわいてくる。しかしどういうふうに実行していいかが分からないという場合にその次になる。
 
実行するんですが、方式がある、やり方がある。実行するといっても、やり方にそった実行でないと、ただ走り回るというだけの実行では、その方式に合っていないから、その目的は実現されない。立てた目的のように現状を変えることは出来ない。目的に到達することが出来ない。
 
実行方式は細かく言えば、八つある。考える要領の話をしているので実行方式の内容についてはここでは触れないようにします。実行方式を考えつかなければ、実行は出来ない。
 
実行しなければ目的には行き着かないということです。それを考えなければならない。考える要領の中には、実行方式を考えつくという所まで入っているという事です。
 
解決原理

実行するにはどうしたらいいかとなれば、又別に詳しく考えなければならないんですけれど、一応考える要領としては、現状認識をするということ。それから原因分析をするという事。目的確立するという事。実行方式というものをしっかり考えるという事です。この四つがお釈迦様が教えられた仏教なんです。それを解決原理と名付けているわけです。
ものごと、問題といいますか、解決するその原理、すじ道、解決原理と名付けております。
 
仏教の専門語で言うと四聖諦と言うわけです。四つの聖なる真理ということです。真理のことを仏教では諦というんです。諦というのはあきらめる、あきらめるということはあきらかにするということです。あきらかにする、それはすじ道をあきらかにするわけです。ですから四つの諦らかなるすじ道ということです。それは聖なるものである。インドの言葉でいいますと、四つというのはチャッタ、聖なるはアーリア、真理、諦め、あきらかに知る真理、サッチャーです。チャッタ アーリア サッチャー四つの聖なる真理。これを縮めて漢文に訳した場合に四聖諦といっている。
 
四つというのは第一番が現状をよく知る、第二番が原因を考える、分析して考える。第三番がどうなりたいかというその目的をはっきり立てる。四番目がどういうやり方で実行するかという実行方式をしっかり考える。それを実行するということです。これで四つです。
 
この解決原理をお釈迦様は本来は人間としての根本的な苦しみ悩みを解決する方法として説かれたわけです。決して金儲けの方法とか、あるいはちょっとした事の好き嫌いを悩んでいる、そういうような事の解決の為に言われたわけではない。しかし、私達が日常生活する上において、その原理を何の問題に当てはめて考えても別に、それではいけないと、お釈迦様の言われたことは宗教の話であるから、日常の話に当てはめたりなんか、それは勿体ないと、恐れ多いと、罰が当たるとかいうような事ではない。日常の生活に当てはめてもかまわない。
 
しかし本来の解決原理、四聖節、四つの聖なる真理は人間としての根本問題、人間は何のために生きているか、人間は何故死ぬのかというような人間にとっての根本的な問題、それからくる所の苦しみ悩み、例えば死ぬということは苦しみ悩みであると、それを現状認識するわけです。人間はみんな死ぬんだと。所がかねてはそんなことは考えていない。自分が死ぬ存在であるということは考えない。まもなく死ぬかもしれない、いや当分はまだ自分は死なないと、こういうふうに大概は思う。
 
しかしそれは考えたのではない。ただそう思っているだけ。三十代、四十代で病気もない人が、死ぬとは普通は思わない。所が三十代、四十代で交通事故で死ぬ人はかなりある。船が遭難して三人の人が救命ボートで助かった。助かった人の話が出ていました。所が同じボートに乗っていて死んだ人もいる。死んだ人も助かった人も、まさか自分達が船がひっくりかえって死ぬとか遭難するとかいうような事考えた事もないわけです。私達は死ぬという問題をそう身近なものとしては考えようとしないが、本当の意味の現状認識、という事は人間が持つている、誰でもが逃れることの出来ない、死ぬというような事を根本として、こういう事を自分の現状として持っているわけです。本当はそれを知らなければならないということなんです。
 
そういう所が、普通の人は知るということはどう考えていいか分からない、分からないから避けようとするわけです。そうすると現状認識をしないということになります。必ず誰でも死ぬのに、死ぬということは皆問題として持っているはずなのに、それを考えようとしない。ということは現状認識をしようとしない、避けているということなんです。
 
そういう意味で死ぬという事の、人間は死ぬということが人間にとっていわば最大の事のようなもの根本的問題。その根本的問題に対して現状認識をしようとしないと、それを避けていこうとするという、その人の生き方、人生態度は何事に関しても問題を苦しみ悩みを持つ問題を避けようとする。その現状認識をはっきりしようとしない傾向を作り出していくわけです。
 
何故ならば今さしあたりの問題も、自分が持っている根本的な死ぬという問題に皆つながっている。自分というのが死ぬという人間であるから、そうすると今さしあたってお金の事とか、病気の事、愛情の事とかそういうような問題、それが問題なんだといっても、それを思っている自分と、必ず死ぬという事を持っている自分と同じ自分なんです。同じ人間でしょう。ある時になったら死ぬという話が問題だ、今さしおり私の問題ではないということにはならない。
 
だから今目の前の苦しみ悩みにしても、それを悩むのも私であり、人間は死ぬという根本的問題を持っているというのも私である。だからその両方が私なんだから、根本問題の方を解決しようとしない態度は、現在の問題を解決しようとする態度にはなかなかならない。ということです。
 
そういうことが現状認識をなかなかしようとしない、そして何とかなるだろうと、あるいは逆にどうしたらいいか分からない、どうしたといらいいか分からないと、おろおろしているという事になる。それで現状認識が一つも始まらない。
 
現状認識が始まらないことには原因分析なんて勿論出来ない。 目的を立てると、自分の人生の目的を立てると、私はこういうふうになりたいんだというような目的を立てるという所にはなおさらならない。結局どこまで行っても苦しみ悩みというものがついて回るということになります。そういう所が人間としての日常的な人間の考えなければならない所です。
 
それは誰にでもそういう要素がある。要するに避けよう避けようとする要素が誰にでもあるわけです。避けよう避けよう、問題を先に延ばそう先に延ばそう、問題をあんまり深く考えないようにしようとする態度が常にある。完


http://d.hatena.ne.jp/nazobijyo/ ← 悟れる美女の白血病闘病記 来週中には5位?