勤労の聖僧 桃水 #42(九、労働時代 その三)

 如上の、聖僧の思想生活を根底的に支配していた三大問題の中の二大問題と聖僧の特徴性格との関係に就いては、私は、先に説述して置いたから、茲では省略したい。惟うに、聖僧と勤労生活との因縁に就いてみるならば、人はそれが昨今のものではなかったことを知るに至って、自然の語る無言の『因縁話』とも聞く思いがするのであろう。

 私の想像によれば、聖僧の生家としての伝への商家なるものは、商家としては下級の、半労働の商家、詰まり、久留米絣か何かの行商人であった。従って、聖僧は、既に、母の胎内にある時分から臍の緒を通じて、労働に親しんでいた。労働に神聖観を受け取っていた。恐らくは、意識的たりしと無意識的たりしとの区別なく、労働に親しみ、労働の神聖観を受け取って育ったであろう。数僅かなる逸話をしか持たぬ聖僧に就いての伝記に於ける、聖僧と勤労生活との関係に就いて観てさえも、聖僧は、後年、江戸、下谷のある寺に於て、糞尿に汚れた板塔婆を束ねて担いで、態々、それを両国橋あたりまで持って行って、読経しながら、その一枚々々を順次に川に流しているのである。斯かる行為は、その僧侶が、如何に仏道修行に熱烈、真摯なる青年僧侶であるとも、単に、それだけの者であるならば、能くなし得ざるものと想われる。その行為には、聖僧の、過去に於て、勤労に親しんだ経験のあることが想像せられる。茲では、その勤労への親しみなるものあるは、聖僧の生家の職業の然らしめた者か、または、聖僧を得度した宗鉄禅師の、勤労生活に対する薫陶のしからしめたるものであるかに就いての言及は無用であろう。

 聖僧は、肥後、熊本の長流院に於いてもまた勤労生活に親しんでいる。しかも、この頃は、もはや、所謂修業時代ではない。一ヶ寺の住職の身である。その時、聖僧は自ら糞桶の天秤棒を担いで、茄子へ施肥したのであるが、その行為は、当時高名を謳われておった船岩禅師の眼前に於て行われた。聖僧は、その時、船岩禅師から『糞尿に手をつくるとは、沙門の身にあるまじきことじゃ』といわれたに対して、『それでは行厠に於て糞門を拭くことも出来ませんな』と答えている。

 話は前後するが、肥前、島原、禅林寺の住職した時もまた、聖僧は自ら鍬を取って、前住職愛好の牡丹、芍薬の花壇を徹底的に掘り起こして、その跡に茶の木を植えている。

 されば、聖僧の勤労思想は、聖僧の禅林寺、脱走以前から、即ち、聖僧の尊き生涯に於ける『第一次生活革命』以前から、どんな形かで、その思想生活の中に取り入れられていたものに違いない。もちろん、聖僧に於ける勤労思想がどんなものであったかということに就いては、一言をもって喝破出来る。それは、当時高名を謳われし船岩禅師の面前に於て行って見せずば気のすまぬ程度のものであった。

 斯く観じ来れば、聖僧は禅林寺脱走、即ち、第一次生活革命を企図した場合に於て、自分の生活を、勤労生活の形に替えるか、または、乞食生活の形に替えるかに就いては、相当に深刻なる思想的の悩みに於て、必然的に考えたに違いない。

 然からば、聖僧は、なぜ、勤労生活と替えずして、乞食生活と替えたのであろうか?そのことに就いて、この故ならんかと、われわれに想像せられるものは、次に列挙なすが如き事柄であろう。

 1、剃髪姿に於ける勤労問題

 恐らくは、現代とは相違して、その当時に於いては、勤労力は剰余を来していたに違いない。従って、その当時の人々は、剃髪姿の勤労者を使うことを欲しなかったであろう。『あの世』と『この世』との二つの人生世界の存在を認識していた当時の人々は、剃髪姿の者に対しては、その人を『この世』の人とは思わなかったであろう。なぜなら、『この世』の人は総て丁髷を結んでいるのである。剃髪姿の者は『あの世』の者である。従って、剃髪姿の者は『この世』の人々に対して、勤労をさせて貰いたい意志を述ぶることは困難であったであろう。としてみれば、若し、僧侶生活を勤労生活に替えんとする場合には、その僧侶は、自然に頭髪の延びるを待つ。その頭髪の、髷に結び得るに至るまでか、或いは、髷に類似のものに結び得るに至るまでに延びるのを待つ以外には、変装用の髷でも被るよりほかはなかったであろう。然からば、なぜ、聖僧は変装用の髷を被って勤労しなかったかというに、私は、斯く思う。即ち、聖僧に於ける勤労欲は、人間の肉体上の自然なる欲求でもあったが、他面、聖僧の、勤労の尊貴に就こうとする心は、聖僧の余りにも正直なる性格を根底としているのである。詰まり、聖僧に於いては、『勤労』よりは『正直』が重んじられるのである。従って、『遊堕』よりは『虚偽』の方が嫌われるのである。私は、聖僧の性格特徴の一つとして、如上の『余りにも正直である』という特徴を挙げると共に、斯かる性格は、聖僧の運命を左右する根本的動機となる特徴性格の一つであるといって置く。