勤労の聖僧 桃水 #41(九、労働時代 そのニ)

さて、雲歩禅師は、江戸からの帰りに、摂津の有馬へ廻って、かれこれ一月ばかりを有馬温泉に逗留していた。
 
或る日のことであった。
 
雲歩禅師は、旅の徒然を慰めようと思ったものだから、宿の近くを歩いていた。
 

すると、向こうから、醤油徳利と葱の十把ばかりのを竹で担いだ年寄りがこちへ向かって歩いてきた。
「雲歩、湯治かな!」
 
いきなり声をその老人から掛けられたものだから、雲歩禅師は、吃驚りした。見ると、法兄の桃水禅師の、またも変わった姿であった。大津の町では、皮肉にも『再会は覚束なかろう』といった桃水禅師であった。

「やあ、これは。方今、いずこへお住まいでございますか?」

「この春頃から腰が痛くてのう、此処の湯治宿の奉公人になっているのじゃがのう、人に使われる身の上と申すものは、却々所の湯にさえのう、ゆるゆるとはいっている暇はないから。どうじゃ、貴殿と同浴させては貰えまいか?」
 
もとより異存のありよう筈はなかったものだから、―

「それでは、拙僧の宿へ同伴しましょう。」

「いずこへ今御逗留でござるか?」
 と雲歩禅師は問うた。そして、続けた。「その荷物は早速下男に命じて御宿迄お届けいたしましょう。」

「いやいや、御無用。何も態々のお届けには及ばぬことじゃ。こうして置けば、余り帰りが遅いものだからとて、誰かゞ取りに来るじゃろう。」

桃水禅師は、平気な顔をして、雲歩禅師の宿に着いた。
 
それから、或る日のこと、雲歩禅師は、桃水禅師に対して、斯う訊いてみた。

「定めし、度々御変名なさるでしょうが、只今は?」

「この頃の名は『有安』―『有安』というのじゃ。三界無安というが、愚僧の三界は無安ではない、三界これ有安じゃ。はゝゝゝ。」

「如何にも、善哉々々でございます。時に、方今も御詩作しておいでゞございますか?」
 
といって、雲歩禅師は、一つの自作を示した。
 
桃水禅師は、昔のことが思い出されて来たものだから、頭を枕につけて、それを受け取って、読んでいたが、遂には、それに和すかの如く、―

「行脚昔年鬧名利。相依未尽老夫情、東山幸ト栄居地、来伴洛陽風月清」
と口吟んだと思うと、またも。「はゝゝゝ。」と、笑った。
 
その夜は、二人は、二回同浴したのであったが、その翌朝になると、もう、室にも、浴室にも、どこにも桃水禅師の姿は見えなかった。
 
如上の逸話の中の口吟みの詩によって想像するに、当時、聖僧は、京都の東山に住んでいたものらしい。そして、この有馬温泉での邂逅は、雲歩禅師の江戸からの帰りであったと伝えられているのである。してみれば、前掲大津の町での邂逅当時は、既に、聖僧は普通一般の労働には堪え得ない程の老齢期にあった、従って、労働としては最も肉体的の力を要しない馬の穿く沓草鞋を作って売っていた、しかし、雲歩禅師との邂逅から、噂にのぼるようになったゝめに、聖僧は、煩雑な俗世間との交渉を避けるためには、大津の町から去らなければならなくなった。聖僧は、またも京都へ帰って来たが、何かの事情の下に、もはや従来の如く、馬の沓草鞋を作って売る生活は出来なくなったので、今は止む得ずと諦めて、再び、僧侶生活に入ったものらしい、そのうちに腰が痛くなって来た。しかし、貯えといってはない。そこで有馬の温泉宿の使い走りをしながら、治療しようと思っていたものと、想像することが出来る。
 
が、いったい、如何なる思想的過程を経て、聖僧は、乞食生活から勤労生活へと進んでいったのであろうか?
 
曹洞宗最高と謳わるゝ大和尚の地位から乞食生活へ、乞食生活から勤労生活へ、―聖僧の生涯に於ける、この二つの点は、汎ゆる桃水伝の二つの眼となるものでなければならない、と共に、若し、この二つの生活革命に対する人の内面生活が浅薄なものであった場合には、その人の著作品は、単に、甚だ浪漫的な、しかし、浅薄な物語を世に贈ることに過ぎないであろう。斯かる著作品は、文化の進歩問題、或いは、宗教思想の進歩問題の上から観る時は、殆ど価値のないものである。
 
私の想像するところに依れば、実際の生活事実の上から観れば、聖僧に於いて見ゆる第一次の、所謂生活革命は突発的に行われたものであるが、聖僧の思想生活に基付いて、その思想生活の上から観るならば、それは決して突発的に行われたものはない。なぜなら、例えば、われわれは良寛禅師を見よう。
 
良寛禅師は、前段に示したる詩に於て見ゆる如く、既に、25、6才頃から37、8才の頃迄に亙る修業時代に於て、『我れ彼の朝野に適くに、士女各々作あり』といって、人生に於ける勤労の世界のことに就いて述べ、次ぎには、『織らずんば何を以てか衣、耕さずんば何を以てか哺わん』といって、その勤労の根底の上に人生の成り立っていることを述べ、その次には、『今釈氏子と称して、行もなく亦悟りもなし』といって、その人生の中の、無勤労の僧侶生活を否定している。尤もその詩の全体からいえば、良寛禅師は、悟りのある僧侶生活は否定していないのであろうが、兎に角、上記の詩に基付いて見るとも、良寛禅師は、25、6才から、朝野を適く度に、『士女各々作あり』を見て、自己を反省していたのであろう。
 
ところで、この良寛禅師が若し父以南の死の直後、勤労者の群に身を投じた場合は、その境遇の変化を観て、後世の伝記者は、それに就いて如何なる感想を述べるであろうか?幸いにして、良寛禅師の場合は、如上の詩のあるために、その感想は浅薄なものとはならないであろうが、今、なぜ、桃水禅師は乞食生活から進んで勤労生活をなすに至ったか―その思想的動機を知るに足る資料はないのであるが、突発的に勤労生活にはいったのではないであろう。何となれば、恐らくは、聖僧の思想生活の中に、社会批判らしいものが生ずるに至ってから以後の、聖僧の思想生活を根本的に支配していたものは、仏道と布施と勤労との三大問題でなければならぬ。