回文57 保障のマイナス (完)保障のマイナスをプラスに

保障のマイナスをプラスに

身分や生活が保障されるということは、現状維持をもって、最高の価値とする考え方を予想しているのではないでしょうか。動物を見ていると、食物は本能的に獲得され、それによって 生活や種の保存がなされてゆきます。それは自然界によって保障された生活と云うことが出来ましょう。しかし、その種は何万年という時間をかけてすらほとんど自己変革をするということがありません。
 
人間は、産み出されると問時に、母親の育てと教えの下に、自己を発達させてゆきます。本能はあまり見られません。従って、自然界から保障されていません。
何しろ、親が子を殺したり、子が親を殺したりすることさえあるのですから。
 
ところがこのように自然の保障が無いゆえに、知恵を発達させ、大学教育ということにまでなったわけです。

つまり、教育と保障は相反するものなのですね。完全保障されるなら別に高等教青を受ける必要もないわけです。ところが高度な教育がなされるるようになって初めて福祉や保障が云われるようになるというのは単なる矛盾ではなく、愛他の梢神として、自已以外の困った人々に援助の手をさしのべねばならないということを、高等教育によって気付くようになるということなのですね。
 
ところが日本の現状はこの反対です。大学教育を受けたような人が、自已の高級生活のみを追い求め、他人どころか肉身の親の面倒すら見ないという話が多い。これは人のために奉仕するということも、教育されねばならないということなので、その面の教育が欠けて自己主張のみになっていることの結果と云うべきでしょう。
 給料によって、身分生活が保障されると、どうしても困った人への共感がうすれます。だから教師はよほど困った人への共感を自ら学習し、これを生徒に教えねばなりません。高等教育は名もなき人々の勤労の汗の上になり立っているわけですから、困った人々への奉仕は、むしろ報恩感謝の実践としてなされねばならないのですね。
 
自已が保障されるとたゞちに安易さと、自已中心性が頭をもたげるというこの保障のマイナスに気付くことから、保障ある者は、保障なき者への奉仕によってマイナスをプラスにかえる必要があります。そしてこれこそ本当に教育として、教えられねばならぬことなのではないでしょうか。保障なき道を歩む者も、保障を足がかりとして奉仕の自由さを持てる者も共々に互恵しあうところに、日本の素隋らしい未来かあると思うのですがいかがでしょう。

 ○父又は母の年老いて衰えたるを、巳は豊かにして養わざるはこれ亡びる人の因なり (釈尊の聖句)