「三宝」弟107号 仏教への入信

「仏教への入信」              田辺聖恵 
 昭和57年8月1日刊 「三宝」弟107号

三宝聖典 第19項 次第説法
仏教に私どもが縁があるという場合、まず在家の家庭世尊はヤサのために、次第に説法したまえり。
「善因みのりて善果を得、悪因みのりて悪果を得、幸いと楽、得んとせば、三宝信じ施をなして、規律を守り、真理へ進みて、正導行ずべし。」

施論・戒論・生天論、諸欲のわざわい・遠ざかりの功徳と法話をすすめたまい、ヤサにたえ忍ぶ心・やわらかき心・さわりを離るる心・歓喜の心・明浄の心、生じたるを知りたまいて、諸仏の最高なる四聖諦を示したまえり。

あたかも清らかなる布がいかなる色にも染むごとく、ヤサはその場においてけがれを離れし法の眼を生ぜり。生ずるものは、みな滅す。」と。

生活をしつつあるということから始まる。つまり信ずるでもない、何も知らないということからである。この『三宝聖典』第十九項に出てくるヤサは、つい最近、仏教としての実質、真理を悟られた釈尊ということを知らない。仏教について何も知らない人に対して、釈尊はどのように正導をなされたであろうか。こゝにまず最初の指導の典型がある。法を導く者と受ける者との、その最初の内容は、真髄の授受と同じ様に大切なのではなかろうか。この正導の順序をはっきり、わきまえてこそ、正導の資格があるとも云えよう。なぜならば、法を知った者は、その喜びを是非伝えたいという熱心さのあまり、とかく真髄を語り伝えようとするものである。
 
家庭で親が算数などを教えようとすると、つい難しい所を教えようとし、こんなことも分らないかーとやがて親子ゲンカになりやすい。それは教えたいという親の心が主になってしまって、それを習う子供の立場が無視され易いのと同じである。
 
宗教と云えども、人間が行うものであるから、まず常識の線からハッキリさせてゆかねばならない。それは多くの人は幸福を求めるのではあるが、あまりよくは分らない徹底の境地などを求めるのではないーということ。仏教によって、信心によってある種の境地に達した者は、何とかその喜びの境地を伝えたいという気持になるものである。しかし、動機も素質、能力もそれぞれ違う人間に対して、いきなり真髄が説かれても、それは受け容れられるものではない。
 
そこですべての人に通じる~幸せへの道というものが説かれねばならない。たとえ意識だけは先走りして、真髄を直ちに求めようとする者に対しても釈尊はまず、この常識からの道、『次第説法』から説き導かれるのである。多少、哲学的な思索に馴れた人であれば仏教の真髄は何か、と求めやすいものである。しかし、そうした人でも「人間だから、人並みの幸福は必要だ」という心があるのであれば、仏教の真理の話を聞いたとしても、それは知的アクセサリーにしかならない。仏教の真理は体験化をするために説かれるものなのだからである。
 
1、幸せを求める内部点検-幸せとは簡単に云えば欲望の充足である。どのような欲望かによって、幸せにも上下がつけられるであろう。在家信者としての在り方は、決して無欲の徹底ではない。少欲知足ー欲を少なめにして満足を知ることである。はてしないご利益を求めて、あちらこちらにお祈りにいったりするのでは、仏教の基本に外れている。また絶対や完全無欲を求めるのも、少々頭デッカチと云えよう。まず素直に内部点検をして、どの程度の幸せ、満足を求めているのかを自身で明らかにしてゆかねばならない。
 
2、どのようにして幸せを求めるか-信者として、幸せを求めることが否定されるのではない。ではどのようにして。自分の努力だけでゆくか。偶然を求めるか。福祉政策を当てにするか。不思議にして偉大な力をもっていると考える神か仏けか、何かの霊物に祈るか。そこで釈尊はどう云われるか。仏・法・僧と云われるこの世でもあの世にでも通用して価値のある『三宝』を信じ(まだよくは分らないが)その信心を土台にして、施こしをしなさい、善い種をまきなさいと云われる。これは勿論ごくごく初心初歩の話であるから、
常識での施こし、何かを他に与え、相手を喜ばせるということである。善い種をまく、善因善果~悪因悪果(業報論) つまり相手に関わり、他を喜ばせてゆくという努力によって、自分なりの努力をもう一歩、関わりにおける努力をしてゆくのである。従ってその反対の他を苦しめるような悪はなるべく行わないようにする。
 
3、正しい常識・正見を持つ-三つの邪見(間違った考え)を持たない様にする。宿命論-前世から未来にかけて、運命はすべて決定しているという考え方。神意論-運命はすべて神によって支配されるという考え方。偶然論-どうなるか分らないという考え方。これは無意識の中にいくらか混在しているのが多くの人である。
 
4、真理への関心を次第に強める-欲を少なめにすれば、幸福は得られ易い。そこでいわぱ、何が何でも、もっともっと幸せをと求めていた、のぼせの心がさめてくる。こゝから、一体、仏教は何を説くものなのだろうかーという仏教そのものへの関心が出来てくる。
 
病気の苦しみがあったり、人間関係で苦しんでいたり、自分の神経質に悩んでいたりする時に求めるのは、仏教そのではなく、仏教が持っているだろうと期待する不思議、偉大な力を求めたり、考え方の転換を求めたりで、つまり苦しみを解決しようとして、仏教を
道具として求める。初めはそうであってもいゝが、なるべく早く、仏教は仏教そのものとして求めるようにしないと、結局くたびれ損にしかならない。のぼせが下がるというのはどういうことであろうか。これもまた自分自身で内部点検できるものである。もし不幸、不遇であったとすれば、その幸福を求める気持で一杯というのが普通であろう。そこでそれ以上を求める心もわからないなら、そこで法の指導は一度止められる。まず幸せへご努力が実践されねばならないからである。しかし、一方ではもう幸せは結構です、幸せ以上の道を知りたいとなれば-そこから真理法か説かれる。つまり幸せ以上の道、覚り、絶対の救われというものが、心を新たにして求められる。それはどのような過程を経るか。
 
5、幸福への高度な反省-経済繁栄、健康増進、福祉の充実等々、それぞれ価値ある幸せをもたらすものである。しかし、反省的に見れば、とかく、それらの幸福はもっともっとと。はてしなく求められ、欲望に深く根ざしていることが分かってくる。幸せを強く求める心が、かえって己を束縛し苦しめるようになるのが見えてくる。つまり諸の欲望にはとかく、わざわいがついてまわる。もし安らかな幸せ、浄らかな幸せを求めるならば、はげしい欲望生活から離れねばならない。激しい欲望から一歩遠ざかるようにする決意が必要だ。
 
6、真理へ開けた五つの心-心が上向きになる、真理のいわば受け皿が出来る、そうした心が準備されないで、真理法が説かれたならば、かえって人々はあやまった判断をする。それは文明文化に使立たない-とか、それは観念の世界へ逃避することではないか-とか、世界平和などに大して貢献しないではないか-とか。
 
確に仏教は世界平和論でもなく、文明進化論でもなく、経済発展論でもなく、政治論でもない。それらさまざまな人間の営みを、ごくごく切りつめて、一個の入間がより価値のある生き方をめざす~というギリギリにいわば煮つめたもので、その人間の究極点をめざすものであるから、他の文明的な尺度で計るならば、それこそ見当違いの批判となってしまうのである。
 
たえ忍ぶ心~バリバリと仕事をして、それなりに生き甲斐を感じている時は、人生を苦にすることはない。しかし一度、人間は何のために生きているのか?といった疑問を持ち出すと、今まで苦にしなかったことが、たちまち苦になってくる。それらを我慢するのがたえ忍ぶ心と云えよう。やはらかき心~固定した考え方から、広い高い立場から自由に考えられる様になるということ。さわりを離るる心~激しい欲望生活や、自己中心の考え方などから離れたくなる心。歓喜の心~新しい世界へ希望が向き出して大きな喜びを感じるようになる。明浄の心~真実を求めたいとなれば明るく澄んでくる。
 
7、明確な真埋か説かれる-師による直接正導が必要なのは、この真理を受け容れる心の準帰が出来たかどうか、を見極わめる必要があること。その人に応じた説明の仕方が工夫されねばならないこと。説明から、どのようにして体験化への指導をするか、といった個人指導が必要だからである。型通りの、いわば表面的な字句の説明だけであると、何だそんなことかと、軽々に単なる知識として受け取ることで終ってしまい易い。また書物による学習も、とかく観念論となり易い。釈尊の仏教真理は、あまりに明解な為に、今日の日本人はかえって有難さを感じ得ない傾向がある。多くの人は深淵さに有難さを感じるが、明解さに心を動かされることはごくごく少ない。
 
心の準備が出来ない内は、真理を説かれなかった釈尊の真意は、その辺にあったのではなかろうか。こうして考えると、本当の仏教は個人指導とならざるを得ないということになる。大衆の集団指導方式の限界を二千五百年前に見抜いておられたということは、何と素晴らしいことであろう。日本でもやっとそうした個人指導の可能性が出てきた。つまり本物の宗教時代へとなってゆくのである。

尊くも有難いかな、と合掌せざるを得ない。