仏教による幸福への成功方式 #74(第九章ダンマ 大慈悲 自力などはない)

自力などはない

昔は自分の修行の力で成仏するのだと考え違いしていた方もあった(自力)らしいのです。しかし成仏とは仏陀の大智大悲無限のいのちとなることですから、仏陀世尊のおかげを受けずにこの成仏の道を知ることすら出来なかったのです。成仏とは自分だけの存在という邪見から抜け出して、社会全体の中の一員であるということを縁起実相の仏教原理によってはっきり自覚させて頂くということですから、自力という自惚れの考えなどは成立しないものです。だからありもしない自力に対抗して作られた他力というものもないので、他力とは絶対の仏陀の力、おかげを他の力として感謝する意味なのです。
 
世尊の教をうけついだ人々は皆、世尊からこのように聞きましたと素直にそのおかげを認めましたが、戦国時代に坊さん達がヨロイを着てナギナタで寺を守るという全く奇妙な時代には坊さんも自分の力を信じていたかも知れません。又一方ご祈祷によって病気を治してやったりすると、自分の行の力、徳のおかげだぞと言いたくなります。世尊は自らを主とし法を主として努めよと常にはげまされました。しかしそれは自己の能力の限界を知り、仏陀のいのちとなってゆく為の途中の修行のすすめだったのです。自分一人の力で生きるのでなく自分をとりまく無数の力をしっかり実感するところに信頼、信仰の念がわいてくるものです。まわりの人々がみ仏のお使いのように思えて拝みたくなる時があるものです。生かされているということは余程、静かな心にならねば分からないものです。
 
今日のような信仰の自由が得られる時代はそうざらにはないのです。正法がこの世に現存し、仏陀三宝がよみがえる可能性をはっきり示しているのです。この尊い自由の時代に再び世相の波によって宗教と言論の悪統一がなされぬ内に、私共は沢山の運動と仕事をしておかねば子孫に対して顔むけも出来ますまい。


https://philosophy.blogmura.com/buddhism/にほんブログ村 仏教