人間は何のために生きるのか (完)

 生きている事の意味                   

生きるという事の意味は、人間はどうして生きる存在であるか、これは縁生縁起、縁によって生まれ縁によって死んでいくと、そういう筋道の通りに生きていく存在であると言うことを分かるようになる。それが生きている事の意味だということです。
 
それが分からないで死んでしまうならば、何か自分以外のものをずっと一生追いかけているということになります。たとえば財産を求めて一生、一所懸命働いて、財産を作るとする、それは何のために財産を作るのかということです。それによって、老後が安定する、保障される、老後が保障され安定すればそれでいいのか。それは自分が生きている意味になるのか。そういうことです。
 
老後の保障というのは生きている意味を自分で考えて、教えられてでしょうが分かるようになれば、充実した毎日を送れるようになる。充実した生き方が出来るようになる為の手段でしかない。老後の保障というのは、年とってもずっとお金の為死ぬま で働かねばならんというなら、人生とは何かなんて考える暇はない。昔は子供を育てゝやっとこれで一安心という頃は親は死んでいた。大体五十五六で死んでいた。この頃は又違った意味で早死にで四十代五十代でコロツと死んでいる。
 
管理職の自殺がちょいちょい新聞に載っている。中学生の飛び降り自殺がはやっている。仕事から離れれば自殺までしなくていいわけです。しかしその仕事から離れられない。本当は離れられない事はないわけです。他の仕事に変わることだって今は出来ます。だけどその仕事からどうしても離れられないように思うというか、行き詰まりを感じて自殺するわけですから、何の為に生きるかという話が抜けているということです。
 
仕事は何も悩まないが、仕事の行き詰まりではないが、人間は何のために生きるか分からないから自殺するという話ではないわけです。仕事上の行き詰まりでしょう。人生そのものに行き詰まったのではない。仕事に行き詰まった。日本人がいかに仕事だけしか、人生は仕事だけとしか思えない、社会環境というか、それは本人だけではないわけです。社会全体がそうなっているから、そういう人間が次から次に出来てくるわけです。 
 
アメリカからも仕事ばっかしという日本人のあり方を批判するような意見がありましたが、日本人は宗教というのを全然知らないから、生き方というのを考えない。仕事の仕方だけ考える。それで経済繁栄はしてきた。仕事一所懸命やるから他よりいいもの安く作る。確かに仕事一所懸命やる。しかし生き方というものを知らないから、行き詰まりを感じたら、ポコッと死ぬということで、それでいいかということになります。    
 
それは仕事の為に自分の生命を消耗品にしてしまったと、仕事が主で、自分の生命はその手段、仕事が目的、自分の生命それは手段方法になっている。大部分の人は宗教の話を聞くというんですら仕事が主で、その仕事の仕方にそれを役立ててみようとするわけです。全くおかしな話ですけど。一種の自己暗示みたいなものでご祈祷する所ですら、病気を治すと言って般若心経あげて、気合かけて病気を治すと。先祖の霊を追い払うというような事をやっていますから、全部おかしな話です。
 
それはやはり仏教というものがどういうものかということが分からないからです。仏教を手段に使って悪いとは言わないが、本来の仏教は仏教の教えを自分が実行して生き、それによって充実した人生を送るということが仏教です。それが人間の生きる目的である。だから仏教の教えを実行して充実して生きるということが人生の目的であって、自分が何か収入を得て生活をする、その収入を得るというのは手段なんです。だから仕事は、普通いうお金取る仕事は手段なんです。
 
仏教的生き方をするというのが人間の目的、少なくとも仏教徒にとってはですが。お金取る仕事はその為の手段。具体的に言うと、私は原始仏教を学んだ。今までの葬式仏教といいますか、偉大な力、不思議な力を持つ仏様を信じるというような話ではないと、真理というものをお釈迦様は発見なされた。それを私達に教えて下さる。その真理を学ぶことによって、人間の苦しみを解決出来る、それがお釈迦様の仏教である。こう分かったわけです。分かったらそれを人に教えたくなる。分からない間は教えるなんて思わないけれど、分かってこんなに有り難い立派なものがある、それを多くの人は知らない、それを何とか教えてあげたい、伝えたいとこう思うようになるのが当たり前、だから私は昭和三十五年にそれを伝えるというために、三宝会を始めたわけです。だから、私はお釈迦様の仏教を伝えるということが、私における仏教の生き方ということになるわけです。所が、別にお賽銭が上がるわけではないし、信者さんがおるわけではないですから、誰も一人もご縁が無い時から始めましたから、お金の入る所が無いわけです。それでまずパーマ屋を始め、生活の手段としてパーマをやりながらやってきたわけです。パーマと信仰の話では余りにもつながらないんです。段々お客さん減っていくわけです。最初はどうにかパーマ屋で食っていける位になったけど、貧乏しいしい段々減る一方だから、借金が増える一方なわけです。それで指圧の免状とって指圧を始めた。指圧は出張が出来るんです。パーマ屋は出張が出来ないんです。病人の所と花嫁の所以外には出張が出来ないんです。指圧は出て行かれるから、それで出て行って指圧するようになった。それも収入を得る手段です。今は指圧ももうやめました。お習字の方を少しづつ通信指導ということで、いくらか収入を得るということをやっています。収入を得るということはもう手段です。何をやっても、私としては何をやってもいいわけで、収入を得るということは、あんまり妙な仕事でない限り、別に仕事に生き甲斐を見出しているというわけではないですから、収入を得る方の仕事としてはですね。私がどうでもせねばならない、本当の仕事というのはお釈迦様の仏教を少しでも多くの人に伝えるということになります。それが私の宗教的生き方、私の人生の目的なわけです。手段としてお金取るというのは何をやってもいいということになるわけです。
 
それから仕事の為に宗教を利用すると、多くの人は自分がどうも不安だから、落ち着かないから、あるいは病気が治らないからということで信仰する。それは自分の生活のために宗教や信仰を利用している、手段として利用している。あるいは仕事がうまく行くようにと人の使い方を習うためにと、それで仏教の話を利用すると、これも仏教を利用しているわけです。
 
そういうふうに仏教を手段として利用する人が、この頃は多くなってきたようです。それは自分の考えだけではもう知恵が足りないから、仏教の知恵を利用しようとするわけです。それも出来ないと、間違っていると言わないけれども、やがて仏教というものがもっとよく分かってきたら、仏教の教えの通りに自分が生きることが、本当の自分の人生の目的である、仕事はその手段にすぎないということが分かってくるはずなんです。分からなければ、仏教がまだ分かっていないということになる。
 
自分を段々変えていく、自己変革、自分が仕事をするために、俺は自分の精神的不安を取り除くために、あるいは自分の病気を治すために、仏教とか信仰とかを利用していた。それがそういう自分だったのが、仏教の教え、真理を自分は実行して生きるための人間になって行くというのであれば、まさに自分が変わっていったわけです。そうして変わらないと人間として苦しみが続くわけです。なぜなら人間は縁起する存在である、常に変わっていく存在である。縁生縁起するというのは、現代的に言えば変化すると、回りの影響を受けて変化するということですから、人間は必ず変わる存在であるということです。変わるということ、回りの影響を受けて、縁によって変わる、変化するということが、真理なんです。だから人間も必ず変わって行くわけです。真理ですから逆らうことは出来ない。自分は何も変わらないように思っていても段々年取っていく。だから内部から変わっている。仮に外の影響を受けないように自分なりに頑張ってても、内部は段々歯が弱くなったり、胃腸が弱くなったり老化してくるわけですから、これはもう間違いなく変わる。その内なる、内の方から変わって行くのを内縁起という。内で縁起する。自分の外なるもの、社会環境、職場の環境、あるいは家庭環境なんか、それは自分の外なるもの。それを外縁起という。外の縁起。
 
外なる縁起、内なる縁起、両方含めてが縁起です。その縁を受けて自分は変わって行く存在である。それが自分。だから必ず変わって行く存在です。その内なる縁起を拒否するわけにも、それから外の影響を全然受けないようにと拒否することも出来ない。だから変わらざるをえない。どうしても変わらなければならないのなら、良い方に変わればいいわけです。良い方に変わるということは、何が良いことかということです。良い方にかわるってったって、何が良いのか。その基準が分からなければ、良い方というのが出てこない。その良いこと、善、良いこととは何か。真理に合致する方向になっていくことが善ということと仏教ではなっているわけです。真理に合致した生き方をする、これは良いことじゃないんです。良いこと以上の聖なる境地になる聖人。聖なる境地です。真理に合致して生きる人であればもう聖なる人になる。聖者ですね。お釈迦様は世尊、聖なる人、世間において最も尊敬される人というので、世尊と言われていたわけです。世尊というのは世の中で尊ぶ。今でも南方仏教ではそう言って拝む。マハガモトというのは世の中において最も尊い人ということです。
 
私達は真理を自覚し、真理のままに生きるということはなかなか出来ない。やはり自分中心が出てきます。お釈迦様は真理を悟られてから、三十五歳で悟られてからは四十五年間八十歳で亡くなられるまで、旅から旅に歩いて行かれて、その真理を人々に伝えて行かれたのです。自ら真理のままに生きていかれたわけです。だから仏陀、仏様、仏だと言うわけです。ただ真理を悟っただけで、それを人々に伝えないならば、アラハート、ご阿羅漢さんですね。仏だとは言わない。俺はもう真理が分かった、もう苦しみはないと言ってじっとしている人は阿羅漢、坊さん、悟った人ではある。しかし仏陀ではない。仏だというのは、仏様というのは、その自分が真理を悟って、自分の一切の苦しみを解決した人が、人に真理を伝えて歩くとそういう行き方をなさった。まさに仏教の真理のままに生きなされた。自分の為に生きるのではない、人の為に生きる。これが仏陀です。真理を悟り、それで自分の苦しみを解決するというのは、自分の為にしたわけです。人の為にしたわけではないですから、だから仏だとは言わない。悟った人とは言ってもいいけど、仏だというのは、もう自分の為に生きるのではいない、悟ったから自分の為に生きる必要はなくなった、人の為に生きるわけです。人に悟る道を教えて歩かれるわけです。これは人の為に生きるわけです。