仏教による幸福への成功方式 #71(第九章ダンマ 大慈悲 本願)

本願 

大昔、法蔵ボサツと言われる方が世自在王如来のところで永い間修行しておられましたが、もし自分が成仏する時には、自分が作る浄土には地獄、餓鬼、畜生の三悪道がないように、又もし自分が作る浄土にきたい者は必ず、こられるようにと四十八の願をかけられ、すでにそれが完成して西の方、十万億土の先に浄土があるということを説いてあるのが大無量寿経です(更にアミダ経、観無量寿経を加えて三つを浄土の三部経と言う)。その四十八の願がけの第十八番目が一番大事な願なのでアミダ仏の本願とも言われております。この本願をダンマ「大慈悲」(救済原理)として勉強するのです。従来仏教の原理を聞いたことのない人々は勝手に、アミダ仏が救ってくれるのだ、おかげさまだと軽い気持ちで言ってきました、仏教の原理を理解するという(随法行)ゆき方は今の人々に向いているのですが、それが更に進んで或いはその原理の理解にゆきつく前の、み仏と三宝をすっかり信頼し信仰し、まかせきるという(随信行)点になると抵抗を感じます。一方原理を毛嫌いする人は感情的ムード信仰に止まり易いのです。み仏の願がけ、つまり願い、まことの精神とは、信じきるものを必ず救うぞという力強い働きかけのことです。
 
救うぞという願と、救って下さいと信じ求める、み仏と人間とが願というダンマ正法を中心にしてぴったり一体になる、この三宝成就の境地がまことの信仰なのです。
 
ここで諸法は実相なり(すべては無限の求心運動なり)というダンマ「実相」(平等原理)を思い出して下さい。み仏はダンマを通してサンガ大衆を求め、大衆はダンマを通してみ仏を求める。この類例のない密接な関係、無限の求心運動は世界、宇宙すべての動きであり、意志であり、願であり、祈りであり、現実であり、理想でもあるのです。願っても願わなくても、知っても知らなくても、この求心運動から何びとも何者も外れることはないのです。縁が熟すればそれに早く気づいてなすべき道を進んで能率よくその理想を達成できるのです。この求心運動をはっきり自覚し、自覚させようとなさるのがみ仏であり願であるのです。すべてが求心運動をしている。自分も早くその運動にのらねばならないという実感と実行と信仰へのふみ切りは中々むずかしいものですが、すでにあなたの出番はもうきています。花道への第一歩をふみしめているのです。
 
いかなる智も信の裏づけがないと、それはあまり役には立たない知識の断片となってしまいます。み仏の智慧を慈悲の色で塗ったのが浄土です。浄土とは死んでから生まれ変わってゆくところと一応思ってもよいのです(凡夫がこの世で成仏することはむずかしいと遠慮する考えも正しく根強いので)がそれは死ぬということを信じ不死を信じきれない人への世尊の思いやりの教えなので、なるべくならば早く生きている内に死ぬことはないのだという確信に行きついて浄土への往生とは、この社会の浄土化という大事業に参加すること、つまり今迄自分の動物的生存と繁殖のみに夢中で人間としては実は生きていなかったのが、これから目覚めて人間として、いや仏子として今日只今から生きらせて頂くという自覚を得ることなのです。ではその自覚を持たずに死んでしまった者はほったらかしてよいか。そこで先祖供養という形式内容をもって、死後に残されている念に呼びかけ浄土にゆき成仏することを祈念してやらねばなりません。
 
もともと先祖の死後の念は第三者的に空中にあるのではなく、自己や他の子孫の奥の心の中に受けつがれているのですから、念をうけついだ人々の修行と信仰がその念を成仏させるということになるのです。
 
せっぱつまり或いは智慧も実行も出来ぬと懺悔する弱き人々に、み仏の広大な慈悲の念力は必ず救うから信じなさいという言葉を通して強く働くと考えてもよいわけです。しかしこのみ仏の救わんとする念力を受ける側の私共は、救われたことの喜びで終わらず、まことのみ仏の智慧をやがて習得せねば甘えた信仰で終わってしまいます。
(実例)六十すぎの婦人、胃病で、当方に祈念にこられ、元気になられたが、ガスがたまって胃ガンだから手術ということになり、切開したらとても悪化しているのでそのまま又縫い合わせ、死を待つのみということで退院となりました。現代医学を批判しても仕方ないので、祈念をした効か、数十日の生をのばして頂き、その間、神通により、この方の若い時の因縁を指摘したところ、その通りだと自ら懺悔し、清浄な心になられて、静かにその生を終えられました。


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