勤労の聖僧 桃水 #37(7、桃水禅師と良寛禅師 その五)

私は、如上の理由に就いてすこし述べたい。
 
人は屡々『法悦境』なる言葉を使う。いったい、その『法悦境』なる境地は、如何なる境地であろうかというに、必ずしも、それは、宗教上の行為の上に於いてのみ見らるゝ境地ではないが、宗教的なる境地である。

宗教的境地は、真、善、美の一如化した境地である。何を真と観じ、何を善と観じ、何を美と観じるかは、観ずる人の相違によって相違するか、意識的たると無意識たるとを論ぜず、観ずる人が、真、善、美の一如化を観じたる場合の心の境地を、人は『法悦境』といっておる。
 
しかしながら、人の真、善、美に対する思惟の世界は同一ではない。と共に、斯かる思惟に基付く行為もまた同一ではなくなる。
 
一方、人の『欲求』なるものは、それ自体的には、容易に就く性質のものであるが、人はそれを困難に就こうとする欲求と変えることも出来る。そして、叡智と反省とに優れた人は、その人の生活体験或いは学理に基付いて、欲求を困難に就かしむる方が一層の法悦を感じ得ることを知るに及んで、普通よりは困難なる状態に於て、真、善、美の実践行為を生涯なし続ける者である。或いは、最も困難なる状態に於て、真、善、美一如化の実践行為を生涯なし続ける者である。
 
もちろん、人は、比較的にいってだが、大なる法悦境に到達した時、大なる幸福を感ずることが出来る。何となれば、『欲求』なるものは、別の言葉で表現するならば、『生死』のことである。そして、『生命』なるものは、物に譬えていえば、永遠に低きに就いて流れ往かんとする水の如きものである。この低きに就いて流るゝ水は、それ自体の性質の儘に流れしめた場合には、詰まり、低きに流れさせた場合には、それ程力を発揮するものではない。しかし、それを堰き止めた場合はどうであるか?その水は、水嵩を増して行くであろう。それはもはや低きに就いて流るゝことの出来なくなった水が、高きに向かって己を積み重ねて行く状態である。その状態を、人と欲求とに喩えるならば、その人が容易に就かんとするその人の欲求を困難に就かんとする欲求と変えている場合に等しい。その時、その人は感ずるであろう、喩えば、己を高みへ高みへと積み重ねてゆく水と同じように、その人は『欲求』或いは『生命』の強さを感ずるであろう。
 
一方、真、善、美は、人によって意識的にその全部(三つともの意)が欲せらるゝと否とを論ぜず、それは全部『生命』或いは、『生命』それ自体の中に含まれているものである。否、精神哲学的に、『生命』或いは『欲求』なるものを解釈する場合には、真、善、美の一如化が生命それ自体である。従って、その『欲求』或いは『生命』の強さを感じることは、とりもなおさず、強度にして高度なる状態に於いては、真、善、美の一如化を感ずる状態である。法悦境とは、その時の心境のことである。
 
私は、斯く思想するが故に、聖僧の生活革命に対する田中氏の観方の中に、『その身を苦しめんがためのもではなかった』という観方のあることに同観出来ないと共に、前陳の理由によって、ほかの人の観方に、(宗教家意識の下に自らを苦しむる行為、懺悔の行為に入った)という観方のあることに対してもまた、上掲の如き、すこしの条件を附さずしては、直ちに同感乃至同観することは出来ない。