仏教による幸福への成功方式 #70(第九章ダンマ 大慈悲 信仰による救われ)

                
第九章ダンマ「大慈悲」(救済原理)

  たとえ 仏陀と   我なるに
  あらゆる衆生    まごころで
  信じ 楽しみ    わが国に
  生まれたしと    よく念じ
  生まれぬならば   正覚せず。
  ただし 五逆の   罪おかし
  正法そしれる    者のぞく。
            
信仰による救われ


世尊は現実に四十五年間絶え間なく人々を導かれました。自ら理想の仏陀の姿を示し、正法とその実行によって何びとでもその仏陀になれると、サンガを結成して指導をなされました。これがどこまでも仏教の本筋なのです。ところがある時、アジャセ王子がその父の王を餓死させて王位を奪い取ろうとしました。
それをたきつけたのは、かっての世尊の弟子でありいとこであったダイバダッタです。この方は世尊に神通力が不足して不自由な目にあうのでどうか神通力が増す法を教えて下さいと頼み、世尊から神通力は自ら得られるもので、求めて自分の道具にすべきものではないと戒められたことから、世尊にそむき、世尊を殺害しようとして何度も試み遂に地の裂け目にはまって生き乍ら地獄におちたと言われる方です。さてアジャセ王子におしこめられた父王を見舞う、その妃イダイケ夫人はどんなに悲しんだことでしょう。そして自らの身体をきれいにして蜜などをぬり、面会に行ってはその栄養をなめさせておりましたが、それを知ったアジャセ王子は怒って遂にその母まで一室に閉じ込めてしまいました。この悲しみにあった夫人はかっては夫と共に世尊の教化を受けて喜びの生活をしておったのに、わが子からこんな目に逢わされ全く地獄のようなものである。この世の苦しみからどうにかして逃れ楽なところに行くことは出来ないものかと、はるかかなたの世尊の方を向いて涙乍らに念じられました。神通力によって察せられた世尊は、そのイダイケ夫人の前にお姿を現じてねんごろに慰め、それでは肉体にしばられての苦しみの世界から離れて真の自由を得られる極楽浄土を説いて上げようと種々にお話をなされました。この苦楽をこえた肉体の制限をこえた輝かしい浄土こそ、人間としてすべて求めねばならないところです。
 
夫人も信仰厚くよく教理を理解していたことでしょうが、在家であって王宮の生活はやはりまことの苦滅に至る実行を充分にさせなかったことでしょう。その内にこうした我が子から殺されようとする切羽詰まった状態になってしまいました。
 
中途半端な修行では苦滅も完成しないので、それをあわれに思われた世尊は、浄土には別のみ仏が居られる。そのみ仏は素晴らしい願をかけて浄土を完成された方だからそのみ仏の慈悲の救いを信じて、心からまごころをもって深く強く浄土にゆきたいと念ずるならば、必ずそこに連れていって救って下さるから信じなさい。そして浄土に救いとられてみ仏の一人となることを念じなさいと教えられました。この教化によって夫人は大安心を得られたということが観無量寿経の内容です。この浄土に救い取られるということは死の苦しみ、生きている内の苦しみの延長としての浄土にゆくというのではなく、仏教の本筋の実行をなし得ない無力を恥じ、懺悔し、み仏に何もかも洗いざらい吐き出してお許しを乞うのです。み仏のすべてを救いとるという願を信じて、ひたすらに懺悔とみ仏をたたえ奉るまごころを表すことによって許され、浄土に往って生きらせて頂くことが出来るのです。この懺悔と讃嘆、深い信と強い念じ、これらが條件であることを忘れると甘いシロップ信仰になってしまいます。み仏は無條件に救いたもうとしても私共は條件を通して信じ、やがて條件を捨てさせて頂くとなるべきでしょう。
 
このみ仏への強い信頼はやがて死後への安心となり、その安心をもって今の堪えがたい苦しみをながめ直すと、別に日本一の苦しみなんてありはしないと気がつき、いつの間にか苦がとけて楽に転換されてしまいます。すると苦がないから喜びとなり、今と死後の楽となり、さらにその信が進むと死後も考えずただ今の楽ばかりとなり、遂に不死の境地に入るので、ただみ仏に感謝のみが生ずるということになる。初めの死後往生の姿は青写真の浄土で、後の不死の境、み仏と一体の喜びがまことの浄土となるわけ。
 
死がなくなれば生のまま無限の生命、あの慈悲そのもののみ仏の生命と一体となって肉体はいつの間にか自然に帰ってゆくのです。浄土とは苦しみや死の観念にしばられていたのから開放されて、無限の生命を感得した心の境地を言うので、それを死後に求めるか現在に求めるかは実にあなたの今の機根能力にかかっているのです。
 
このイダイケ夫人のように肉体的に環境的に切羽詰まることもあり、仏教の本筋を修行するのに行きづまり、あるいはみ仏の智慧を常識で体得しようと(科学的仏教論)することによる失敗などの智慧の行きづまりの時、偉大なるみ仏の境地を思えば思うほど自分の無力低劣を感ずるものですが、そうした時、このみ仏への信頼、祈り、おすがり、信仰を素直にすることによっていやそうせざるを得ないようになって初めて、一つの境地が開けて喜びを得るものです。そして更にその喜びをも通りこしてゆくのです。この修行と信仰をくりかえしおりまぜてあの錦も得られるのです。この力弱く、智慧浅く、どうにもならぬほどの凡夫が、そのみ仏の御加護を信じる立場から言えば信仰であり、み仏の救う立場から言えば救済の施行となるのです。私は自ら修行するのだというはかない自惚れをもっていては、ゆきつく先ははるかとなり、この身このまま救われるのだと甘えてばかりも、あぶないことで、ここにも中道が必要。
 
救済のみを期待すれば神の救いとなり、努力のみでゆけば道徳におちてしまいます。

祈念→精進→懺悔→讃嘆→信仰→喜→祈念とくりかえしくりかえしまことにしんのしっかりした道を進んでこそまことの仏教徒でしょう。智慧を求め原理に執着するといつの間にか哲学者となり信仰がうすれて自尊心過剰となってしまいます。常に仏陀の慈悲と御加護を信仰し自ら得たいと願っていた福分をまず他に譲り渡すといった豊かな信仰、智慧を通りこしたまことの仏慧とは、大智大悲と言われるように智慧を内包した大慈悲なので(大智を得てその大智を何とか伝えたいという大慈悲がわかないなら未だそれは大智ではない)ここにゆきつくとみ仏の慈悲の施行をうけつがねばならぬという自覚がわいてきます。あなたは智を通りこして信仰の世界へと入ってきたのです。まことにありがたいことです。尊いことです。


https://philosophy.blogmura.com/buddhism/にほんブログ村 仏教