人間は何のために生きるのか (その三)

  事実と筋道

お釈迦様はそれではどうしても物足らなかったから、事実を知りたかった。事実としては色んなものの縁によって生かされている存在、色んなものの縁によって生まれてきたのである、という事実が分かられた。
 
その事実は科学の方法と同じなんです。事実を通して筋道を発見するんです。それが科学です。お釈迦様はその色んな縁によって色んなものの影響によって生まれてき、存在しているというその事実を通してその色んなものの縁によって存在するんだという筋道を発見なさったわけです。これが筋道であって真理です。だから事実と筋道は同じものなんです。事実を事実として見た場合が事実。事実の中にある筋道を考えた場合が筋道。だから仏教というのは事実と筋道の二つを別のものでないとするわけです。
 
事実が分かれば筋道も分かる。普通の人の発想では事実は分かるがなぜそうなるかという筋道が分からないんです。
 
飯を食べれば腹がふくれる。腹一杯食べれば眠くなる。そういう事実として分かる。しかし、食べ物食べれば何故生きられるか、その筋道が分からない。今はその位の筋道は分かりますけど、しかしちょっと複雑な話になると、事実は分かるが筋道は分からないというのが多いわけです。
 
人間が生まれてきている、自分として生まれてきているという事実と、どうして生まれてきたのかという筋道と両方が分かるということが縁起ということなんです。縁起は事実をすべてのものは相互に影響しあって存在するというその事実をいう場合と、影響しあって存在するんであるという筋道をゆう場合と両方の意味があるわけです。
 
それをお釈迦様はお分かりになられたわけです。その事実と、人間が存在する事実と筋道がお分かりになったわけです。                             
 
そうすると今度は人間は何のために生きているかという、その事実と筋道を分かるようにする為に生きているんだということになるわけです、普通の人はそんなこと習わないから気が付かないけれど、人間には何故理性があるのか、それは、そういう人間が生まれてきて存在するその事実と筋道を知る、分かるために人間に理性があるんだという事になっています。
 
ただ儲けるためとか、面白おかしく暮らすためとか、そのために理性があるんではないんです。
 
理性の使い方がそこではっきりしてくるわけです、人間に与えられた理性にはちゃんと目的がある。それは人間が存在する、その事実と筋道を分かるようになるため。それが理性の意味なんです。
 
そうすると理性を使ってその事実と筋道を分かるようになり、そしてその筋道の通りに生きると筋道に段々一致してくるわけです。縁によって生まれてき、縁によって存在するんである、自分だけ存在するんではない。自分だけ山の上にいて、そして誰にも援助は受けぬ、ただ自分だけ生活すると考えたところで、空気のお世話になる。それから水のお世話になる。人にお世話にならなくても自然にお世話にならなければ、空気がなければたちまち死ぬ。だからそういう空気や水の縁を抜きにして生きることは出来ない。三分間でも空気がなければ人間は死んでしまうんですから。
 
だから人間は自分一人で生きられる存在ではないんです。そうすると、縁によって生かされているんだということを、その事実と筋道を分かるようになるという事は、その筋道を分かって生きるということになるわけです。それが仏教なんです。 真理が分かってその真理を使っていくというか、真理の通りに生きていくという、それが分からない間は自分で努力をして、自分で仕事をしていくと、こう考えているから、思う通りにならない。それで行き詰まりを感じてみたり、あんまりはりきりすぎてみたり、傲慢になってみたり、色んなゴツゴツが起きるわけです。
 
私達は縁生縁起、縁によって生じ縁によって滅して行くという、その縁を抜きにした存在ではないという事が分かれば、俺が俺がと言っているのが、いかに物事を知らないで生きている人間かということになってくるわけです。すなわち愚かしいということです。