人間は何のために生きるのか (その二)

生き方とは

人間は何の為に生きるかという事を考えないで生きる人、それは生き方として、考えて生きていることにはならない。ただ仕事を考え家庭の幸せを考え、白分が欲しいものを求めてというような生き方だからそれは生き方とはいわないわけです。

生き方とすればそこに何のために生きるのかという、その人生の目的を考える。そしてその目的を達成する為の方法を持って生きるという事でないと生き方にはならない。簡単にいえば人生の目的と方法、目的を実現するための方法を持つということです。それが生き方になるわけです。
 
所が、人生の目的というと、普通の人は仕事の延長を考えてみたり、生き甲斐を考えてみたりして、人間そのものか、何の為に人間になってきたかという考え方までは普通はいかない。
 
よく考えてみると、どうして自分は人間として生まれてきたか、ちょっと考えると不思議な位です。この世に生まれてきたということは、お釈迦様はこの世に生を受けることは難しいと言っておられる。自分が人間として生まれてきたということに、有り難いと思ったこともないし、不思議と思ったこともない、生まれてきたこと自体に何等感動を持たない。疑問も持たない。ただ何か欲しい、幸せが欲しいという幸福だけを追求して、生きているということ、生まれてきたということ自体に対する感慨とお釈迦様は人間は何の為に生まれてきたかと疑問を持って、そしてそれがその当時の教えバラモン教ですね、神様の信仰、そういう教えではどうしても答えが得られないわけです。それでは白分か落ち着かない。それで出家なさって人間は何のため死ぬのか、人間は死ぬという事実がある。これは間違いなく人間は死ぬと誰でも知っている。その死ぬということが分かっているのに何のために生きるかというわけです。動物は白分か死ぬという事は、恐らく考えないでしょう。だから生きるという事の意味なんかも勿論考えないでしょう。

所が人間は死ぬという事を知っているわけです。必ず死ぬのに、死ぬということは一応生きていることの中身がそこで帳消になるわけです。それなのに何のために生きるかと、何故生きるのかと。それを考えない間は何でもないことこけど、考え出すと答えが得られないから落ち着かないわけです。それでお釈迦様は何年も何年もかかってそこを追求していったわけです。難行苦行も6年間もなさったという位ですから。そういう風に追求して、あげくに人間というものはどういう風にして生まれてきたかと、それは縁起性である。縁によって起きてきた。縁によって子として生まれてきたものであるという事実が分かったわけです。
 
縁によって、平たく言えば父と母というその縁によって子として生まれてきたわけですから。それをもっと広げれば、沢山の先祖の縁によって自分が生まれてきた。自分が生きているということは、食べ物も食べなければならない。空気も吸わなければならない。そういうものがある。そういうものの縁によって自分は生きているというのが当然分かるわけです。色んな縁によって生かされている存在であるというそれは事実なんです。事実が分かるようになったきたわけです。
 
普通の信仰だったら神様中心ですから、神様が人間を造ったというような話に大概なっています。だから事実がよく分からないんです。神様が人間を造ったというのが、事実かどうか確かめようがないです。だからよく分からないなりに、こう普通はそれを信じるというわけです。分からない場合は信じるというわけです。