勤労の聖僧 桃水 #35(7、桃水禅師と良寛禅師 その三)

斯くて、その夜も明けて、翌朝になったものだから、二人は、その仮の宿から出た。それから、坂本の町では袖乞いをした。それから、堅田の方へ向って、疲れた足を搬んでいる時のことであった。二人は、偶然にも路ばたに弊れて死んでいる年老いた乞食のあるのを見出した。               

聖僧は、それを見ると、?密洲の方に向いで、近くにある村の入口まで行って、钁を借りて来るように?棄咐けた。聖僧は、その時、珠洲に向って、若しも何にするのかと訊かれたならば、斯ういうのだ、朋輩の一人が死んだが、これをその儘に捨てていたならば、往来の人は臭くてならないであろうから、そのために死骸を隠したいのだ、―斯ういうのだと教えることを忘れはしなかった。
その時になってから、?密洲は、

「寔に不憫な者じゃ」

 こう、思わず知らずにいった。
 
聖僧は、当然のことをいう?密洲の言葉を聞き咎めて、なぜか、こういった。
「不憫じゃ?この死人ばかりが、なぜ不憫じゃ!」
 ?密洲は、黙っていた。
 聖僧は、こう続けた。

「?密洲よ、上は、畏れ多くも天子、将軍から下は、見よ、この死人に至る迄、出生の時は糸一筋、米一粒も所持して来たものではないぞ。然からば、死ぬる時、裸で飢えて死んだところで本取り商いというものじゃ。たとえ、米百万石を儲けてみたところで、時節が来るときは、割粥でさえ咽喉へ通るまい。また、衣装を倉一杯貯めてみたところで、一番最後には経帷子一枚着たきりでこの世の旅立ちじゃ。然るに、こゝに気の付かない者が多い。将軍、大名などの死を、何だか特別の死のように見ているが、愚の骨頂じゃ。」
 
やがて、死骸の始末も終わったものだから、聖僧は、それまでその死人の枕元に喰い残されていた雑炊のようなものに手を出し、それを半分程、さも美味そうにたべ終わったかと思うと、―
 「?密洲、たべよ。」
 
といって、あとの残りの半分を、?密洲へ差し出した。
 
?密洲は、仕方なしに、一口だけその得体の知れないものをたべてはみたが、その最初の一口だけで、もう、思わず困ったように、顔をしかめてしまった。
 
すると、それを見た、聖僧は、やがて、自分に取返すと共に、さも美味そうに、ぺろりと、それをもたべてしまった。
 
?密洲は、間もなくであったが、にわかに顔色を変えてしまったかと思うと、その場へ嘔吐をはいた、かと思うと、?密洲は、その場へ打ち伏してしまった。
 
先程から?密洲の様子を見ていた、聖僧は、やがて、?密洲に向かっていった。
「?密洲よ、それだから、随伴は出来ないといったのを覚えておるじゃろう。帰るがよい。儂は十日ばかりの間には小僧が受取りに来るからといって置いたから、昨日の小舎へ行ってから袈裟衣を貰え。それから、智伝のところへ帰ってから、二人で仏国寺の高泉禅師のところへ行って、自分共は、二人共雲渓の弟子である。雲渓の指揮の下に御随伴に参ったといえ。高泉のもとでこそ、たとえ一命を終わる程の厳格な鉗鎚にあうとも決して二の足を踏まざる修業をするがよい。?密洲よ、儂のことはこれ限り夢にも出さぬがよい。」
 
それから、湖水の方を目指して、すたすたと歩み去った。
 
?密洲は、聖僧への随伴については、もう諦めなければならなかった。そこで、聖僧の指図通りに、高泉のところへ訪ねて行ってから、高泉に永随し、その法を嗣いでから、一生を終わった。
 
―読者は、この逸話を読んでどう感じられたか?この逸話の中には、特に留意しなければならぬ文字が二つ三つある。その一つは『境界を異にしている』という言葉である。これを単に、現代語の『境遇を異にする』という意味に理解する時は、それは非常に間違った解釈となる。これは、異なる境遇、心境、それから仏教観などを異にする存在である、ということを意味した言葉である。

次ぎに、聖僧の偈の『世上の是非、総て干せず』、の言葉に就いて、対象となっ ている『世上』は、『人生』といったふうな最も広い範囲のものと解釈すべきか、或いは、日本国中といった程度の範囲のものと解釈すべきか、或いはまたは、九州辺といった程度のものと解釈すべきか、如何という問題である。この『世上』という文字の解釈如何は、桃水研究上には重大なる意義を有するものである。何となれば、これが『九州辺』といった程度のものあるならば、?密洲と智伝とは、聖僧の上洛の後を追うて上京したのである、そして、聖僧は、黄檗山にはほんのちょっと立ち寄ってからすぐに身を乞食に落としているのである。それと共に、余りにも読者の科学的批判を無視し過ぎている伝記者の手によって書かれたればこそ、聖僧は?密洲に対して一言も禅林寺脱走事件に就いて語っていないことになっているが、事実は、その林の傍の神社の縁側に於て、二人は禅林寺脱走事件及びそれに就いての、領主及び禅林寺関係の者の批判が?密洲の口から語られていると想像すべきであると共に、心理学的に観て、この『世上の是非』という言葉は、『九州辺の毀誉褒貶』と解釈すべきである。もちろん、たとえ、それは(自分に対する九州辺の毀誉褒貶ばかりではない、たとえそれが天下の毀誉褒貶であろうとも、到底、自分は何人にも理解される者だとは思えないから、自分は褒貶共に歯牙に掛けない)という意味も含まれている言葉である。 
 
ところが、面山禅師は、?密洲と智伝とは、聖僧の後を追うて、直ちに上洛したと伝えており、田中氏は、『若しそうだとすれば、面山によって伝えられている、桃水の黄檗山に仮寓したことは抹殺されなければならない』といっておられるのであるが、さて、何れであろうか?私は、面山禅師の手になりし伝記の方を正確だと信ずる者である。と共に、黄檗山仮寓問題に対しては、たとえ、聖僧の黄檗在住期間が五日間乃至十日間の短期間であるとも、仮寓とはいい得ると思う者である。ただ、茲で私が問題にしたい点は、面山禅師の伝えに拠れば、聖僧と二人の弟子との邂逅は聖僧、禅林寺脱走後三年となっている。としてみれば、聖僧は、黄檗山へは僅かに両三日或いは四五日滞在しただけで、どこか遠くへ行って乞食の群に身を投じている、それは黄檗の近くでは発見せられ易いからである、黄檗の僧侶たちに発見せられる惧れがあるばかりではなく、自分と黄檗との関係の浅からぬことを知っている凡ての者から発見せられる惧 れがあると思ったからだ、―それから三年後、もはや誰にも発見せられる惧れがない程度に、頭髪や鬚髯が延びてから、京都に帰って来たのだ―と私は想像する者である。