勤労の聖僧 桃水 #31(6、禅林寺時代 その六)

しかし、如何に生来愚なる聖僧であったとしても、その大麦をついて麦飯に拵える迄には凡何時間掛かるということの分からない程の愚ではない筈である。若し、聖僧はそれが分からない程の愚であったならば、それは『愚に似たり』ではなく、愚そのものである。

故にこの場合の聖僧の行為に就いてはそれは別の方面から観察すべきである。

極端にいうならば、聖僧は性来聡明な人であった、故に、この行為あり、として紹介すべきである。

即ち、恐らくは、聖僧は、その場合、二人の来客の夕餐に供するに足材料は何一つとして、村へ行ったところで求めることは出来ないと思ったのであろう。そして、そう断案を下しても差し支えるところのないだけの根拠があったのであろう。
 
しかしながら、聖僧は二人の来客を、心から喜んで迎え入れた。その二人の来客に対して夕餐を供したいという思いを捨てることは出来なかったのであろう。その思いが心からの悦びであればあるだけに捨てることは出来なかったのであろう。もちろん、聖僧は、それを麦飯にする迄には何時間かゝるかとは知っていたであろう。が、二人の来客に夕餐を供するために、というよりは、自分の誠実なる性質へ夕餐を供するために、大麦をついていたのであろう。―
 
暫く、聖僧の、誠実なる性質、―その方面に立脚して、その行為の根拠に洞察すべきではなかったであろうか、と私は思う。
 
田中氏はまた、聖僧禅林寺脱出事件に就いて、斯く述べられてもいるのである。

『桃水が高力左近太夫になした諫言が、如何なる種類のものであったか、そしてまた、それが幾度にも及んでいるのか詳かになし得ないが、とにかくその結果、二人の間には不快な空気が醸されたに相違ない。そしてそれは、時と共に領主の心のいよいよ荒振るに従って険悪なものとさえなって来たのであろうが、その険悪さの次第に強くなるにつれ、桃水としては早刻にも禅林寺を辞して、安全な他領に去るより外はなかったろう。しかしそれは到底許さるべくもなかった。何故なら、領主にとっては自分に鋭い諫言の鋒を向けた、しかも愚直な余りにも愚直な彼を去らしめることは、この上もない不安なことであったに相違ない。といって、激怒に駆られて彼を処刑し去るには、奇僧としての彼は余りにもその名を知られていた。斯くて高級な俘囚となった桃水に残された手段は、たとえそれが如何に危険を伴うものであっても、唯脱走するの外はなかったであろうが、しかし、意を決してそれを行うには、彼の身辺に厳重な監視の眼が光っていたであろう』
 
私は、田中氏のこの御想像の根拠となるものに就いて次の如く想像する。
 
田中氏は、蔵山良機氏著『重続日域洞上諸祖伝』第四巻『洞水和尚伝』(桃水のことを洞水として伝えたものもある)に、『遷拠島原向東寺、固諫檀越不可』とある資料を拾われた、一方に於いては、高力は暴虐なる領主であった。高力は民を虐し、諫臣を殺したという資料を拾われた。そして、聖僧は高力に諫言した、故に殺されるところだったろうと田中氏は想像された。しかし、事実聖僧は生きていた。そこで、『聖僧は奇僧として余りにも有名であった、高力はその故に、桃水を殺すことが出来なかった。しかし、諫臣を殺した位だから、聖僧を高級な俘囚位にはしたであろう』―御想像になったのであろう。 
 
が領主とその領主の菩提寺の住職との地位的高下如何というに、ある場合には住職の方が上なのである。それは人の道を求むる者と、人の道を知らしむる者との関係に於いてである。その師を高級なる俘囚にすることは容易ならざることである。それに、或る意味付けをするならば、出家して寺に住んでいる者は総て皆、高級なる俘囚である。敢えて、これを、特に高級なる俘囚たらしむる必要はないのである。
 
田中氏は、この文章に於いては、聖僧の身辺には厳重な監視の眼が光っていたがために、聖僧は容易に他領へ脱出することが出来なかったと書いておられるが、他の文章でに於いては、『猶また彼(桃水)の伝記者達によって伝えられているように、高力左近太夫の暴虐に対しては一顧もすることなく、唯単なる思想的な悩みによってのみ、彼が禅林寺を出走したのであれば、何も斯かる仰々しい出走の形式の下にされなくとも、彼は何時にても自由に寺院を去ることができたであろう』とあっさりと片付けておられる。そうだ、高級な俘囚でもなんでもなかった、監視の眼などは光っていなかったかのように、あっさりと片付けておられる。
 
私の、田中氏の聖僧紹介に就いて、そこには無理があるという所以である。