仏教による幸福への成功方式 #60(第八章ダンマ 六度 互いに施せ)

互いに施せ

信仰の初めは善果を得たい為に善因をまく施しをしました。それでよいのです。私共は初め、何かの善果を頂くことのみの喜びを求めるものです。病気治しや、商売繁昌から極楽往生まで、常に自分の頂きが中心でした。しかし仏教の原理が段々分かって来、又施しをすることによって、自分の欲の心の垢を少しずつ落して行く内に、自分の立場がよく分かり目が開けてきて、他の人々にも仏教をすすめ、苦しみか
ら逃れさせ、心の安らぎを得させてやりたいと祈る心が出て参ります。それは新興宗教のように信者を何人増やせば何ぼの御利益が頂けるというのとは格段の違いです。平等原理を習えば、他人だ親子だと思っていたのが実は同じ人間であり皆よくなって貰わねばならないのだという実感が自然にわいてくるものです。つまり奥の心にある無明心が、仏性(仏になる性質)に変わりやがて仏心へと転換されてゆくのです。
 
何者にも命ぜられることなく全くの自由をもって自発的に人々の救われと覚りの手伝いをしたくなってくるときが必ずきます。こうした自発的な喜びと止むに止まれぬまごころから人々の精進の手伝いをするのが六度の施です。社会の浄土化という理想をもって、物を求める人には物を、心を求める人には心を、み仏を求める人にはみ仏を。私共は全力をつくして施をなさねばなりません。自己の体験と勇気とをもって、この施を永続させることが必要です。
 (実行)乞食に百円を施す。ここで静かに自己の罪障心因の消除を祈り、更にこの人もやがて仏縁に恵まれて、正しい生活に入りますようにと祈念する。

施しについて正しい仏教徒はもっと積極的でなければなりません。アメリカでは子供をもたぬ人達が全財産を公共事業に施すことは多いものです。日本ではこの施をすすめることをはっきり口に出せる良心的な僧職者が少ないのではないでしょうか。施をすすめる為には自己が受けず自己の集団が受けず、公共の社会が受けることが條件だからです。施しが高く評価されていないのです。施はほとんどその教団と売名的公共施設への投資となってしまうことが多かったのです。施は相互に恵み合うもので一方の犠牲によってなされるのは施ではなく永続きもしません。財施できる方は喜んで財施をし、法施できる方は喜んで法施をすべきで、ここに共々に喜ぶ善が出来上がるのです。これこそまことの大善因であり、浄土作りという大善果が生まれるのです。よく考えてみると喜ばずにしたのは施とは言えないのですね。

世尊に道場を施したり、お食事を差し上げたりした人々の晴れ晴れとした喜びを沢山のお経は伝えています。今からでも遅くありません。私共も世尊と社会に施しを差し上げましょう。金も名誉も地位も学歴も技術も何もない私は、何を差し上げるべきかと何年も考えました。そのあげく毎日こう祈り念ずるようになりました。「吾ら集むるところの功徳、神通、無明と智慧、別して寿命を三宝に回向し奉る」と。何故ならこれ以外に世尊に差し上げるものがないのです。ところがよく考えてみるとこれは皆、み仏から頂いたものだったのです。だからこの回向とはもとにお返しする、み仏の世界に帰ってゆくことになるのですね。寿命をお返しすれば寿命がなくなるのではてしない無限の寿命になれるのです。これはうまいこと考えついたわいと実は一人で悦に入っている次第。あなたも何か一つ世尊に捧げるかお返しをすることを考えて下さい。お酒でも怒りでもいいでしょう。棚上げするとあなたはずっと軽くなるものです。

「カショーよ、ボサツが施しを行うのは、おそれから逃れる為ではない。名誉と利益の為でもない。他をあざむくためでもない。たかぶりを生じても又よき果いを望んでもならぬ。これを行う時は己をかえりみず、又受ける者をえらんではならぬ。諸の人々に対して慈悲の心、平等の思いであって子のように思うてせねばならぬ。その苦しむのを見ては、父母が病ある子を見るようにあわれみ、その楽しむのを見ては父母が病める子の治るのを見るように喜び、すでに施した後は父母が子の生長した後に生活してゆくのを安心するように施しに対して心にかけてはならぬ」


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