勤労の聖僧 桃水 #30(6、禅林寺時代 その五)

元来、人間の種々なる欲求は、それを三つの範疇に属せしむることが出来る。

(1) 科学的欲求。
科学的欲求とは、真実ならびに真理を求むる欲求であり、それの特徴は、学究的である。
(2) 道徳的欲求
 道徳的欲求とは、良或いは善を求むる欲求であり、それの特徴は政治的である。
(3) 芸術的欲求
 芸術的欲求とは、不醜或いは美を求むる欲求であり、それの特徴は、文化的である。
 
真、善、美とは、即ち、如上の欲求を端的にいい現したる言葉である。
 
そして、如上、三つの欲求の渾然と融合なし一如化したる世界を真の宗教的境地というのである。そして、宗教的境地以外のそれは、或いは、科学的境地、或いは道徳的境地、芸術的境地である。
 
簡単には、立派な人間になる事が宗教的境地に立つことだといえない所以は茲にある。
 
人は如何なる職業に身を置くともその職業に対して、雑念を持たず、一所懸命に就いておれば、そこが宗教的境地であるなどとは簡単にはいえぬ所以である。
 
茲に至って、聖僧の、平凡なる市井の勤労者の生活の上に宗教的境地を見出したことに宗教家としての価値があるのである。
 
殊に、日本に於ける勤労感ならびに勤労観は、如何なる階級、如何なる職業に於けるそれであるかを論ぜず、共通的に、西洋のそれとは異なるところがある。
 
余談はこれ位にして、桃水観に於ける、田中氏と私とのそれの相違を挙げなければならぬ。
 
私の、田中氏と同感する所以は如上の如くであり、同感せざる所以もまた、如上の如くである。
 
田中氏は、聖僧を取扱うに当たって、一般魯鈍者を取扱うと同じような取扱い方をしておられる。
 
故に、聖僧禅林寺脱出の伝記を見た場合に、聖僧には斯かる大芝居を打つことは出来得ない、想うに、聖僧の背後に何者かがいて、聖僧を脱出せしめたに違いないと想像せられたであろうが、田中氏の所謂『大芝居』なる言葉は、如何なる意味する言葉であろうか?
 
想うに、それは、如上の、形々しい大掛かりの脱出形式を意味するものであろう。
 
しかしながら、人の『智能の世界』の上に立って、その脱出形式を観る場合に、それは、果たして、『大芝居』というべきものか。どうであろうか?
 
私をしていわしむれば、それは、普通一般の人に打てる『小芝居』である。『小芝居』という所以は、斯かる、脱出形式を採る上には、それ程複雑なる智能の働きを必要としないという意味である。
 
それにも関わらず、田中氏は、その脱出形式を、『大芝居』だと観ておられるのである。斯くの如く田中氏をして想像せしむるに至るには、まだほかに、一つの理由があるものと私は想像する。
 
即ち、田中氏は、聖僧を監禁せられていた者と想像しておられるのである。
 
一言にして、それを掩うならば、聖僧は魯鈍である、斯かる大芝居の打てる者ではない、背後に何者かがあって、斯かる大芝居を打たせたのであろう。それはなぜか?恐らくは、聖僧はたびたび領主に対して諫言をした、そのために勘気を蒙って、監禁せられていたのであろう。斯く考えるよりほかにはない、―と想像せられたのであろう。
 
私は、惟う。
 
しかしながら、殿の勘気を蒙って、監禁同様の境遇に置かれていた聖僧が、なぜ、その期間中に法幡を立てゝ曹洞宗僧侶としての最高の地位、大和尚の地位に昇るための法会を営むことが出来たのであろう。なぜ、領主はその事を許したのであろうか?或いはまたは、なぜ、曹洞宗の本山は、そのことを領主に遠慮しなかったのであろうか?
 
田中氏は、その方面の事に就いては、お考えにならなかったようである。
 
田中氏は、聖僧を、愚直の人、魯鈍の人としてのみ取扱っておられる。そのために、聖僧を紹介するに当たっての、無理が生じて来るのである。聖僧紹介に当たって根本的のことをいっておられるにも関わらず、所々にこんな無理が出て来るのは惜しむべきことである。
 
田中氏は、前段、聖僧の、肥後、南郷、清水寺住職時代に於ける逸話を紹介なさる場合に於いてもまた、聖僧を愚直、魯鈍なる人と解釈しておられる。そこには、そのための無理の紹介がある。
 
例えば、聖僧は二人の来客に供する夕餐の支度のために一室に入った、それは夕景のことであったか、聖僧は夜の十時になっても、まだ二人の来客の前に姿を現さない。二人の来客は、いったい住職桃水は何をしているかと思って、覗いてみると、聖僧は、一所懸命になって、研鉢の中の大麦を研槌を持って突いている。二人の来客は呆れ返って、その訳を聖僧に訊ねると、桃水は、斎米がなくなっているのに村までは遠いし、その上夜中のことでもあってみれば、迚も埒は明かないと思うので、托鉢の大麦をついて麦飯を拵えようと思っているが、気ばかりあせって埒があかない、そこで困っていると答える。―
―それに対して、田中氏は、『前述の如何にも微笑ましい逸話も。桃水の生来の愚が生んだものだ』と紹介しておられる。