原始仏教講座(全六講)第一講 その四

第一講 その四

ただ教えだけではうまくいかない。学校教育が今いろいろ問題になるのは、教えるのはどんどん教える。文部省の指導要領で、一年生はこれ、二年生はこれ、と予定全部決まっている。40人とかの生徒の学力の差とか、集中力の差とか、親の環境とか、そういう話は抜きになっている。落ちこぼれやすい子供には、ここを教えろとかには恐らくなっていない。全部一律、一斉授業。教える方が主になって、行が、練習はおろそかになる。学校はどういうところか。教える所です。学校というのは、学はまなぶでしょう。学校というのは教える所なら、教(おしえ)校と言わなければならない。学校というのは、学はまなぶ、まなぶというのは私なら私が、生徒がまなぶのが学でしょう。先生が学ぶわけではない。学校というのは生徒が学ぶ、校は家、建物。昔はまなびや、明治時代は学び舎(や)といっている。学び舎だった。教え舎ではない。ところが何時の間にか教室になるわけです、今度は。教室、教える部屋になる。学び舎ではなくなる。段々段々逆転してきている。そして名前は学校だが実は教え校になるわけです。どんどんどんどん詰め込みする。それで間に合わないから、塾に行って塾で教え込まれる。そうすると合格率が良くなる。まさに日本の教育は教え校になるわけです。教、育でしょう。学習ではなくなってしまう。実に嘆かわしいい。明治以降の西洋に追いつけ追いつけの、日本人の日本国家の焦りから来た学問の仕方ということです。それが未だに続いている、明治が教育界に於いては未だに通用している。そういうようなことに対する批判が教・行・証、というお釈迦様の仏教の学習の仕方、仏教は仏教であると同時に学習なんです。「行」「証」ですから。学習のあり方というものをお釈迦様はシステマチックに構成しておられる。指導しておられる。