邪馬台国での「魏志倭人伝」解釈の鍵とは! 木漏れ日に生命を!

 「邪馬台国」論争においては「考古学」的成果は、あくまでも状況証拠として留め、
史書魏志倭人伝」の解読で論争に決着を就けるのが本質、本道である。
 「魏志倭人伝」という原点に戻り、「邪馬台国」論争を再検討すべきであるということだ。

  「魏志倭人伝」の大枠の解釈では、邪馬台国は九州にあるとするのは正しい。
 だが、大和説が厳然と今でも潰れず存在をしているのはなぜか。

 では、「魏志倭人伝」記述において、「邪馬台国論争」を解決するには、
何が大きな鍵となるかということである。

 「魏志倭人伝」には「邪馬台国」に至るまでの行程記述が、十箇所ほどある。
1 「循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國七千餘里」
2 「始度一海 千餘里至對馬國」
3  「又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 
4 「又渡一海 千餘里至末盧國」
5 「東南陸行五百里 到伊都國 
6 「東南至奴國百里
7 「東行至不彌國百里
8 「南至投馬國 水行二十日」
9 「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 」
10「東渡海千餘里復有國」
11(「去女王四千餘里、又有裸國 黒齒國復在其東南」)

 これら「邪馬台国」に関する行程の情報であるが、
大和説は8「南至投馬國 水行二十日」と9「南至邪馬壹國 女王之所都 
水行十日 陸行一月 」における方位「南」は「東」の誤記として変更すれば、
問題なく成立すると、大和説を唱える方はしている。
 そして、今では、多くの文献学者は、この改竄を是ともしている。

 だが、この点は大和説を唱える学者などに騙されているのだ。

 実は、大和説は「水行」=「海の航行」という定義が信に正しいと明確に
論証出来なければ、大和説は瀬戸内海や日本海を利用して大和地方には
到達できず、大和説は完全に破綻するのである。
 すなわち、「水行」の解釈は「魏志倭人伝」記述の方位「南」を「東」に改竄する以上に、
 実は、大和説にとっては大きな問題を内在しているということである。
 ようするに、「魏志倭人伝」解釈で鍵は「水行」の解釈と定義なのだ。

  だが、今まで、九州説を唱える学者なども多くは「水行」=「海の航行」と定義して
邪馬台国」論を述べており、大和説を唱える方々は「水行」の定義が大和説にとっては
大きな鍵をにぎっていることを知っていても黙っているのだ。

 実は、大和説を唱える学者などは、陳寿の記した「水行」という文句を
従来は真摯に吟味し明確に定義をしないで、安易に九州説を唱えている学者など
がおおかったのを悪用して、
賢いというか、狡知というか、
「水行」の定義に関する論争は完全に無視し避けてもいたのである。

 九州説を唱える方は、実は大和説を唱える方々にうまくだまされているのだ。

 九州説の方は大和説に不利になる可能性のある問題を余りきづいていない。
大和説を唱える方々、学者の大きな支えとなっているのは、実は「魏志倭人伝」翻訳
で誤訳されて通説となっている「水行」=「海の航行」なのである。
 この通説の前提が崩れると大和説はもろくも崩れ成立はしないのだ。

 このような重要な論点が「魏志倭人伝」翻訳には実は残されていた。

九州説を唱えるひとは、大和説の最大の弱点を真摯に論議せず曖昧にしている。
 おそらく、これを読んでいる方々も、同じではないだろうか。

 どうだろう、「水行」の意味と定義を再考するという問題は?
 一度は、通説を疑い、真摯に自分の目で頭で調べてみるということは。
 自説が崩れても、やらなければならないと思う問題でもあると。
2012年11月23日