仏教による幸福への成功方式 #55(第七章ダンマ 四聖諦 愛情と家庭 )

愛情と家庭

では愛欲はいかに転換されるべきか-人間は愛欲の奴隷でなく主人であったはず。愛欲は種族社会を繁栄させる盲目的欲求でしたが、一度仏教を習えば盲目的生き方では満足出来なくなるのです。愛欲は夫婦と子の家庭を作るものです。この家庭を浄土の最小単位とすることが仏教徒のあり方です。最善の五つの真の幸福を具体的に作り上げる家庭こそ人間の目的なのです。その家庭を作る一人一人が愛欲を慈悲を含んだ愛情に転換し、そこで苦滅を完成してゆけば、浄土のヒナ型を作ることができます。こうした家庭を作るのは実に妻の努力のよし悪しが最も重大となり、妻こそ浄土的家庭作りの主役となるのです。
 
かって男性は社会で働く為の家庭は単なる休憩所と考えてきました。そこで満足に休憩出来なければ他に休憩所を作ったものです。しかし私共は浄土のかけもちなんて出来るものではないのです。よりよき家庭を作る為に男は労働を提供して報酬に替えてくるのです。こうした家庭の集団が社会であり国家であり世界なのです。社会の為に犠牲にならねばならぬ家庭や個人というものはあってはならないのです。
 
男の病気は、家庭の不和からと言われるのは、男自体が家庭的幸福を求めて、それに不満な時病気となるということで、この男性の家庭への期待を見事に裏切るのが女性であるというのでは困ります。女性が本能的に信仰心が強いのはよりよき家庭を作り、種族保存の大目的を達成しようとする本能的現われなのです。

この本能的信仰心は男性の智性によって補われ調和を求め、男女一体化してより正しい信仰が行なわれやがて夫と妻とか性の意識がうすれてゆき同行の弟子同志として和合し合うことが望ましいのです。その信仰の具体的な表現が家庭となり浄土化されて行くというのでなければ仏教と人間とのつながりはなくなってしまいます。
 
家庭は愛欲の巣であってはいけないので、よりよき仏教徒を生み育てかつ練成してゆく道場ともならねばなりません。家庭の仏壇はこうした道場の最小形でありここに毎日の修行と感謝が行なわれるのです。性欲によって互いに求め合った夫婦は一体として、人生の目的を完成するという目覚めをもたぬ限り、その夫婦は真の幸福をつかむことは出来ないのです。お経の中にも世尊のお話によって、夫婦が愛欲のみの生活から、清らかな家庭作りに踏み切った話は沢山あります。年令に応じた愛欲の正常化を考えたいものです。

ここにもとらわれを捨てることが幸福へのポイントであることが分かります。
 
「世にもし、いやしくてたちがたき愛欲をうち敗る人あらば、うれいはその人を去る。若葉から水がしたたり落ちるように」
                                    (法句経)
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