勤労の聖僧 桃水 #27(6、禅林寺時代 その二)

私の想像するところに依れば、この禅林寺住職時代の聖僧には、もはや、市井一介の平凡なる勤労者の生活の中に、自己の安住の地を見出そうとする心が相当に強く動いていたものゝようである。私は、次の如き逸話を参考にして、斯く想像するのである。
 
聖僧の法兄船岩禅師が、長流院で法華経を講じつゝあった時のことである。法弟の聖僧もまた、船岩の講義を聴こうと居合わせてはいたが、聖僧は、書院の床の帳に弊れた卓袱を掛けて、唯一人でその帳の内手で聴いていたそうである。思うに、当時の高僧たちの講義に対して、嫌厭たるの情を持つに至っていたのであろう。
 
斯くて、或る日のことであった。聖僧は、何と思ったものか、破れた服を身に着けて、跣足の儘、肥桶を担いで、菜園に肥料を施していた。それを見て驚いたのは、船岩であった。
 
船岩禅師は、それを見るに耐り兼ねたものだから、荒々しい声で、―

「おい、これこれ。沙門として糞尿に手を掛けるとはあるまじきことではないか」
 
すると、聖僧は、初めて仕事の手を休めてから、船岩の言葉に対して、こう答えた。

「そうですか、それでは、行厠して糞門を拭うことは出来ぬ。人は誰しも糞門を拭うた手をもって仏に合掌し礼拝するが、別して仏罰も当たりはしないようですぞ!菜園に施肥したとて、別して汚れもしないので、茄子が痩せると思ったからやった迄の事じゃ」
 
当時名立たる船岩禅師の法華経の講義を聴きたいばかりに集まっていた男や女やであったが、こんな返事を聴いたものだから、中には笑う者もあれば、中には感心する者もあったそうである。
 
聖僧が禅林寺の住職であった期間は、約5年間であった。聖僧は、この期間に度々、領主高力の虐政に就いて、領主に諫言を呈した。しかし、それは領主に諾いては貰えそうにもなかった。茲に於いて、聖僧は、もはや、堪忍袋の緒を切らずにはいられなくなった。その時、聖僧の思い付いたことがある。それは、最も独自、痛烈なる復讐であった。
 
ある日のことであった。その日は、非常に祝福せられて然るべき日である。何となれば、聖僧は、その日、法幡を立てゝ、曹洞宗僧侶としての最高の地位―大和尚の位に就こうとする日である。
 
冬期ではあったが、入会した僧侶は約百二十名と算ぜられたとのことである。
 
聖僧によってその時講じられたのは、『正宗賛』であった。
 
この結冬安居の解制になる日は、正月十六日であった。
 
その正月十六日の朝のうちに起こった出来事であった。衆僧は、送行の告別のために打ち揃って、方丈室へ行ってみると、なぜか、慈父の如き聖僧の姿が見えなかった。否、聖僧の姿が見えなかったばかりではなかった。聖僧の袈裟袋もみえなかった。桂杖も見えなかった。ただ一つ、見えたものがあったかと思えば、それは方丈門に一枚の貼紙がしてあって、それに次のような言葉が落書きせられてあっただけであった。

『今日解制大衆送行、老僧先出東西任情』
 
実に、あっさりした書き置きであった。
 
寔に、この世には珍しい、あっさりした書き置きであった。しかも、何と言う謙遜で、平民的な書き置きであろう。
 
ところで、驚いたのは、衆僧よりは、寧ろ、暴虐の領主高力左近大夫隆長その人であった。高力は、慌てふためいた。その間の状況を伝えて、面山禅師は、こういっている。

『城主聞テ大キニ驚キテ、津渡ノ所々ニ、出舟ヲ駐メシムレドモ』
 
もちろん、聖僧はその姿を発見せらるゝに至らなかったのである。
 
聖僧は、如何なる方法をもって禅林寺を脱走したのであろうか?聖僧に対するこの伝記者は誰一人として、そのことに就いて記録してはいない。従って、私は、そのことに就いては想像する以外にはない。
 
面山禅師の伝うるところに拠れば、前掲の如く、高力はその事に就いて大いに驚いて、津渡の諸々の出舟を停めさせた。上述の文感から想像してみるに、高力の驚駭は、相当のものであったことが分かる。否、極限するならば、驚駭の極に達したといっても、さしたる過言でもないようである。
 
もはや、説明する迄もないことではあろうが、高力は暴虐極まりなき領主である。恐らくは、この暴虐なる領主の悪政に就いての噂は、他領にまで聞こえていたであろう。一方、聖僧は、既に奇僧としての高名を天下に馳するまでに至っていた、とはいえないとするも、九州中国筋、京、大坂辺迄の間に於いては、既に、相当高名であったであろう。のみならず、聖僧の、崇高なまでに愚直なる性格的特徴は、如上の地方に於いては、一般の人々は、若し、聖僧から語り掛けらるゝ場合には、聖僧の言葉を絶対的に信用するものと想像して差し支えはない。もちろん、そのことは高力にも想像せられていたことであろう。
 
高力は、この聖僧の口から、自分の悪政を他領の人に知られはしないか、否、他領の町人百姓にそのことを知らるゝだけなればまだしも忍び得るであろう、若し、聖僧の口から、他の大名たちに知られ、他の大名の口から、幕府にでも知られた場合には、その結果は、どんな事態が生じるか分からない。その事に就いて、高力は非常なる心痛を覚えたであろう。
 
おそらくは、高力は、家来に命じて、早馬を飛ばさしめ、領内の諸々の川の渡し舟を停めさせる一方、浦々からの出船をも停めさせた、―斯く想像することが出来る。それにも関わらず、聖僧を探し当てることは出来なかったのである。