勤労の聖僧 桃水 #26(6、禅林寺時代 その一)

六 禅林寺時代

聖僧の禅林寺転住に就いて、田中茂氏は、次の如く想像ならびに感想を述べておられる。

『前述したように、桃水が禅林寺の住職となったのは、謎の扉に閉ざされているが、それに対して、憶測を加えてみるのも無意味なことではなかろう。想うに、寛文2年には、彼の法弟である雲歩が、肥後の領主、細川越中守綱利の帰依を受けて、豊前の高田に瑞光山能仁寺を創建しているが、雲歩に対する細川侯の帰依は並々ならぬ者であった。例令、名利に淡泊な桃水であったとはいえ、そうしたことが幾らか彼の心を差痒しはしなかったであろうか。そしてそれが彼をして、高力左近大夫の請いに応じせしめたのではなかろうか』
 
この高力左近大夫に就いては、前段に紹介したが、なお、も一度此処で紹介しよう。
 
高力は、官位は、従五位下である。所領は、肥前、島原に於いて、三万七千石である。寛永14年、島原の地には、かの有名な切支丹の一揆があった。左近大夫の父忠房は、同15年にこの地に封され、領主として、善政に最善の意を注いだ。そして、明暦元年に死んだ。その後を受け嗣いだところの高力は、領民を虐げ、諫臣を殺すといったふうな虐政を布いた。寛文7年、幕府の巡撫使がこの地を訪れた時のこと、哀訴する領民は路に充満したと伝えられているから、その虐政は非常なものであったに違いない。
 
然からば、高力の虐政に就いては、禅林寺着任前に於いては、何等聞知するところがなかったのであろうか?そういうことはあり得ない事である。聖僧桃水は、同じく島原の清水寺にいたのである。
 
然からば、田中氏の御想像の如きものであろうか?法弟雲歩に対しての競争心―とはいえない迄も、雲歩に対して、自己の体面を保つ気持から赴任したのであろうか?若し、田中氏の御想像の如き想像ならば、それは聖僧の性格に基就いて想像していう場合の正確の言葉といえるであろうか?
 
元来、人の、一つの行為を行う場合の心的動機は複雑なるものである。故に、その行為の動機に就いて説述する場合には、その行為の根底をなしている動機を挙げなければならない。そして、それは、この場合に於いては、田中氏の御想像の如く、法弟雲歩に対する競争心が根本的動機であろうか?
 
私は、聖僧の、領民に味方せんとする慈悲心が根本的動機であったと想像する者である。私のこの想像の根拠は、次の如くである。後年、聖僧は大津に於いて、沓草鞋を売っていた。その時、聖僧は70才頃であった。そこへ雲歩禅師が通り掛かった。雲歩は駕籠に乗っていた。雲歩禅師は、細川侯の帰依浅からぬ高僧であった。然るに、雲歩禅師は、その時、人足たちに沓草鞋を売りつゝあった聖僧の姿を見掛けると、態々、自ら駕籠から出て親しく声を掛けている。
 
競争心というものに就いていえば、こちらが競争心を持っておれば、そのことは相手にもまた知らるゝものである。
 
それでは、この場合の雲歩禅師は、自分の優越地位を見せつけるために、態々、駕籠から降りたのか、そして、人足相手に草鞋をひさいでいた聖僧に声を掛けたのであろうか?若しそうではないと想像すれば、聖僧と法弟雲歩との間には、何等競争心の持ち合いはなかったか、或いは、二人は、一方的に、そして異なる方面に於ける競争心を持っていたということになる。即ち、聖僧の、禅林寺住職赴任という行為の動機として、法弟雲歩禅師に対する競争心があったと想像するならば、それは聖僧に対する雲歩の競争心とは、全然異なる競争心であったと想像すべきである。それは何であったかといえば、領民に味方する慈悲心であったに違いない。さればこそ、雲歩禅師は法兄を畏敬していた。そこで、この場合に於いても、態々輿から降りて、親しみ深い声を掛けたのである。
 
そして、聖僧は、それに対してどう答えたか?

「主持ト同前ナレバ、ツトメカタ大事ゾャ」(面山著『桃水和尚賛伝』)と答えたそうである。
 
また、雲歩禅師は、その後、天福寺に於いて、大衆に話して、大汗をながしたと告白している。
 
また以て、聖僧の、人物としての器ならびに気概の雲歩に卓越していたこと、及び、従って、禅林寺転住の際にも、何等雲歩禅師に対する競争心を持っていなかったことは、想像するに難くないことであろう。
 
如上の私の想像の根拠には、また次の一事がある。
 
聖僧―新たなる主人公を迎えた禅林寺の前庭には、美事なる牡丹、芍薬の類が夥しく植えられてあった。それは前住職が極端な程、花を愛する人であったからである。前住職は、色様々に艶麗を競う花旺りの頃ともなれば、客を招いて酒宴を張ったと伝えられている。しれみれば、領主高力もまた、その酒宴に招かれる一人であったに違いない。
 
然るに、この寺の住職になると共に、自ら鍬を取って、その花園を覆し、そのあとに、茶の樹を植えた。それは、前住職に対する、趣味的叛逆行為とも観られる。しかし、そこには、高力の虐政に対する、それとなき諫志がひそんでいるようにも観られるのである。仮に、その行為は、前述の如き、趣味的叛逆に基付くものとなすとも、領主の思惑などは眼中にない聖僧の態度が想像せられるではないか?