仏教による幸福への成功方式 #53(第七章ダンマ 四聖諦 四禅 )
四禅
まず正坐をします。頭をまっすぐ立て、あごを引き耳と肩とを向かい合わせ、肩を後に引いて力をぬき、背骨をのばし膝はこぶし一つあけて、足の親指を重ねて下腹に力を少し入れて突き出し加減にする。本式にはあぐらをかいて右足を左のももの上に乗せて、右手を開きその上に左手をのせ左右の親指を突き合わせて円を作る。座布団を二つに折って尻のみにしく。次に正息法をします。そして少し落ち着いてきたなら静かな呼吸に移る。吸ってヒトー吐いてツー吸ってフター吐いてツーと十までを繰り返す。リズム的に潮の満ち引きに合わせるような積りですると一体となる感じが早く出来る。そして「願わくば吾に正定をなさしめ給え」と三回口に唱えて念じます。次にはもう何も考えずただ正定の精神統一をするのです。初めは目をつぶったがよいでしょう。中々雑念がわいてきて一分間も統一は出来ません。しかし初めは皆そうなのですから一向に気にせず素晴らしい苦滅の為の正行をやっているという自信をもって五分から十分して下さい。馴れたら三十分です。
それが禅(dyanaドヤーナ)ですが、更に誰でも分かるようにその禅定の状態を四段階に説いてあります。
四禅 思考的 瞑想的 感情的 肉体的状態 心身一如的
第一禅 荒々しい考え 静かな考え 喜び かすかな楽 欲をはなれた精神統一
第二禅 はっきりした喜び はっきりした楽 やや精神統一
第三禅 しみじみした喜び すぐれた楽 かなり精神統一
第四禅 完全に精神統一
初めは誰でも荒々しい考えにとらわれますが、段々馴れてくると欲求不満も消え、身も心もふんわりとなり、喜びと楽とを感じます。更に進むと喜びを求めずともただ静かに坐るようになります。こうして思考に片よらぬ正定の境地を止観均等と言い在家でも得られる理想の境地とされています。これを実行して自己テスト表でテストするとどんどん自己改善されてゆくのが分かります。
「自分が泥の中にうずもれていて、他人を泥の中から引き上げることはできぬ。自分が感覚の欲を調え、煩悩をほろぼさないで、他人をしてその感覚の欲を調えさせ煩悩をほろぼさせることはできない」
「来たれよ、これが道である。私が自らさとった無上の涅槃を示すであろう。汝等もそれを行えばその無上の涅槃を覚るであろうと、この如来の教えに多くの人々が従い数百人、数千人数十万人この道を行うとすれば、これによっても出家の功徳は一身だけに限ると言うか」
「世尊よ、もしそういうことならば出家の功徳は多くの人々に及ぶものであります」(増一アゴン経)
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まず正坐をします。頭をまっすぐ立て、あごを引き耳と肩とを向かい合わせ、肩を後に引いて力をぬき、背骨をのばし膝はこぶし一つあけて、足の親指を重ねて下腹に力を少し入れて突き出し加減にする。本式にはあぐらをかいて右足を左のももの上に乗せて、右手を開きその上に左手をのせ左右の親指を突き合わせて円を作る。座布団を二つに折って尻のみにしく。次に正息法をします。そして少し落ち着いてきたなら静かな呼吸に移る。吸ってヒトー吐いてツー吸ってフター吐いてツーと十までを繰り返す。リズム的に潮の満ち引きに合わせるような積りですると一体となる感じが早く出来る。そして「願わくば吾に正定をなさしめ給え」と三回口に唱えて念じます。次にはもう何も考えずただ正定の精神統一をするのです。初めは目をつぶったがよいでしょう。中々雑念がわいてきて一分間も統一は出来ません。しかし初めは皆そうなのですから一向に気にせず素晴らしい苦滅の為の正行をやっているという自信をもって五分から十分して下さい。馴れたら三十分です。
それが禅(dyanaドヤーナ)ですが、更に誰でも分かるようにその禅定の状態を四段階に説いてあります。
四禅 思考的 瞑想的 感情的 肉体的状態 心身一如的
第一禅 荒々しい考え 静かな考え 喜び かすかな楽 欲をはなれた精神統一
第二禅 はっきりした喜び はっきりした楽 やや精神統一
第三禅 しみじみした喜び すぐれた楽 かなり精神統一
第四禅 完全に精神統一
初めは誰でも荒々しい考えにとらわれますが、段々馴れてくると欲求不満も消え、身も心もふんわりとなり、喜びと楽とを感じます。更に進むと喜びを求めずともただ静かに坐るようになります。こうして思考に片よらぬ正定の境地を止観均等と言い在家でも得られる理想の境地とされています。これを実行して自己テスト表でテストするとどんどん自己改善されてゆくのが分かります。
「自分が泥の中にうずもれていて、他人を泥の中から引き上げることはできぬ。自分が感覚の欲を調え、煩悩をほろぼさないで、他人をしてその感覚の欲を調えさせ煩悩をほろぼさせることはできない」
「来たれよ、これが道である。私が自らさとった無上の涅槃を示すであろう。汝等もそれを行えばその無上の涅槃を覚るであろうと、この如来の教えに多くの人々が従い数百人、数千人数十万人この道を行うとすれば、これによっても出家の功徳は一身だけに限ると言うか」
「世尊よ、もしそういうことならば出家の功徳は多くの人々に及ぶものであります」(増一アゴン経)
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