仏教による幸福への成功方式 #48(第六章ダンマ 実相 無明と佛性 )

無明と佛性

この根源を空として、物化の因とすれば一応そうかなと思えますが、では何故空があやまれる因縁を含んでいたかということが疑問となります。この空とは、物化と心化の因を含んだものですから、心性から見れば未だ欲を生み出していない時を仏心とします。しかしこの仏心は何かの縁で堕落し、仏の心となる性質(仏性)となり下がり、更に堕落して無明の迷い本能となったのです。ではいつ堕落したか、一体初めから無明化の因が空の中に入っているのかと追求したくなります。ここでもう一度縁起実相をふりかえりましょう。

 縁起-差別、相対、連関、異時因果、求心
 実相-無差別、平等、綜合、同時因果、仏心

すべての差別相を追求して行くと根源を求めることになりますが、それを通りこすと平等の世界、何が根源かを求める必要のなくなった覚りの境地が開けてくるのです。ここに科学と仏教の相違点があるのです。
 
はてしない知的追求(科学的と言われる)それ自体が無明でありその無明の智識がいくら物の根源を追求しても或る限度以上を知ることができない。この無明の智識では駄目だと限界を知って、無明を投げ捨てたところに一切は無限に変化し、しかも平等であり、そこに輝かしい喜びの智慧があることが覚れるようになります。こうした執着に出発した追求が終わり安らぎを体験した時が、仏教の第一目的個人の完成(苦滅の正覚)となるのです。
 
無明心を開発し向上せしめ、仏性を認め、更に仏心に転換してゆくこれが実相なのです。一見無目的に見える自然界もはてしのない時間をかけて、調和の世界を求めて求心運動をしております、あなたもその一員です。ここで一切法すべては実相である、尊くありがたきかなと納得出来るのです。


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