仏教による幸福への成功方式 #40(第五章ダンマ 縁起 仏教の歴史)

仏教の歴史

今迄仏教の理論は日本ではっきり説かれておりませんでした。世尊はその人その人に最も適切な教えを説かれたのですが、そのお話は四、五百年間も口から口へ伝えられ、やがてお経の本にされたので、その間に多少、受け継ぎ手の考えが加わるのは致し方ありません。世尊の偉大な教えは沢山の内容を含む為に受け継ぎ手はその全部を受け継ぎきらずに一派一派を作り自分の方が世尊の直系だと誇り合うようになってしまいました。その宗派がすぐれている根拠を示す為に理論的にむずかしいお経が作られていったのです。それは誤りではないが一般大衆とは遠いものになってしまいました。一般の支持を受けるのが本当なのにそれよりもまず有力者、権力者によって認めて貰い保護を受けないと自宗を確立することが出来なかったのです。それはシナでも日本の昔でも同じです。世尊滅後、二、三百年間はよく正しい仏教が伝わっておりました。(アソーカ王は正しい仏教による政治をうちたてた)

 (世尊時)             (アソーカ王時)
 根本仏教     原始仏教     部派仏教(専門化) 初期大乗
(大衆化)
紀元前500年  紀元前300年  紀元元年      紀元300年
   
               (堕落化)          滅亡
 中期大乗(哲学化)     後期大乗(密教化)    マホメット教攻勢
紀元600年 聖徳太子   紀元1300年 法然 親鸞
紀元800年 仏教弘法           道元 日蓮


やがて太平の世となり僧職者は専門化して、大衆を導くことをあまりしなくなり、経典が製作し始められた。大衆はそうした専門化に対して目覚めて出家在家と区別する形式よりも、いかに世尊の真精神にふれて皆が救導されるかが問題なのだとして、形式的な専門僧侶が程度が低く、在家の真の信仰を求めるボサツの方が進んでいるといった内容のお経が作られました(例えば維摩経法華経)。つまり在家側から世尊の仏教に帰れという大衆運動がなされたのです。そしてさかんに在家同志が研究し向上していったのです。ところが在家は供養を受ける必要がない為に理論的になりすぎ大衆を救導するという精神が薄れて、段々哲学的なむずかしいお経の本が作られてゆきました(華厳経など)。こうして哲学的となり大衆と離れてしまうと又々それではいけないと、ご祈祷などの現世利益をとり入れた密教というものが盛んになりました(大日経など)。浄土に救われるという思想を持ったお経も初期大乗の時代に作られたといわれます。そしてあまりご利益主義となって後にはすっかり堕落してしまい、ついにマホメット教に攻められて亡びてしまいました。

日本の仏教歴史-日本でも同じ歴史を繰り返しております。初め朝鮮を通して伝えられた仏教は聖徳太子によって正しく研究され、太子は十七條の憲法や経典の解説書を残され仏教による理想政治を計画されました。丁度アソーカ王と同じです。その憲法第一條には、和を以て貴しとし、さからうことなきを宗とせよ。人みな党あり、亦達れる者少なし、とあり第二條に篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり。すべての生あるものの、帰り求めるもとにして万国の最高の宗なり。いずれの世いずれの人もこの法こそ尊ぶべきである。人甚だ悪いという者は少なく、よく教えれば従う。もし三宝に帰らねば何をもって曲がれるをまっすぐにできようか(意訳)。とされました。ここに日本の政治形態と根本精神が明らかに確立されたのです。ただこの理想は悪人達の力が強く、理想政治を行なう期間があまりに短かったので大きなみのりを得ませんでした。

 
しかし百年後には行基ボサツが出られ日本中に橋をかけ道をつくり、無料宿泊所や無料病院などを作って旅から旅に歩かれ大衆救導の施行をなされました。更に百年後には伝教弘法両大師がシナに渡り、かなりシナ式になった仏教を学んで帰られ、それぞれ日本天台宗真言宗というものを立てられ、日本の大乗仏教の基礎作りをされました。しかし段々理論競争がご祈祷の力くらべとなり、貴族の後援を頼りとして有名になることを望み、大衆を救導するということはなくなってしまいました。その反動として鎌倉時代になると、武家政治のしわよせを受けたひどい農民や大衆の生活と精神を救済すべく立ち上がったのが法然上人や親鸞聖人などです。一度戦となれば田畑は戦場となり、米は城主の貯え、平和になれば城づくりの苦役とまるでドレイのような生活。字の勉強どころではない大衆にどうして漢文のお経の説明ができましょうか。仕方がないからひたすらにアミダ仏の願かけにおすがりするようにすすめることになったのでそれが浄土宗であり真宗でした。

 
一方では日蓮上人がこの世にいる内に救われご利益を受けねばならぬそれには法華経を頼りとすべきだとすすめられました。又一方では道元禅師が黙々と坐禅による覚りの道を弟子に伝えて養成されておられました。むずかしい仏教理論ではどうにも大衆を救導することができなかったのです。それは苦しみの大衆を救う生き生きとした仏教だったのです。しかし江戸時代になると世は安定し、僧職者も救導の熱意を失い、寺についてる田の得米をとって地主以上の暮らしであぐらをかいていたのです。こうした七百年がたって敗戦という痛手をうけても、相変わらず正しい仏教の理論は説かれず、たまたま説教があれば七百年前の文字を知らず、思考する能力をもたぬ大衆に説かれたと同じ話がくりかえされているのです。大衆は喜びも共鳴も感じないので支持をせず、苦をもつ者は迷って新興宗教にとびこみ、今日の混乱となっているのです。今日いずこに行ってもそれぞれの宗派のご開祖の話ばかりで、世尊がこう説かれたという根本の仏教原理は聞かれないのです。全く奇妙な事実ですね。しかしようやく八十年前から原始仏教が研究され、その根本的立場で仏教を考える方々が段々増えてきました。今後百年の間には進歩的な仏教徒はまことの世尊の仏教を、即ち三宝が互いに具った仏教を、この地上によみがえらせる努力を継続し実らせるでしょう。この小著もそうした仏教歴史の中にはさまる一労作なのです。これこそ世尊の意志なのです。


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