父 杉田正臣著

(六十一)

父は論よりも証拠を重んじた

父は実践を主とし読書を従とした

父は口を以て教えるよりも身を以て示した

父は陽徳よりも陰徳を重んじた

父は医者の不養生を恥とした

父は受けた恩は終生忘れず
 施して報いを求めることは決してなかった

父は散る花を追うことなく出ずる月を待った

父は万事を人に示すの念を以てせず
 神に仕うるの念を以てした

(六十二)

父は
 生涯生徒たるの覚悟を持っていた
父が
 生涯の師 河本教授の門に入ったのは 明
 治二十八年 師三十七歳 父二十七歳の時
 であった
父は
 生涯この偉大な師の前に勤勉柔順な生徒で
 あった
父は
 帰郷後は自らの力で解明出来ない問題は
 師に書を呈して教を乞うた
父の質問に対して
 公私多忙な師は必ず懇切な答書を与えた
父が師に教を乞うた最後は
 昭和十二年師七十九歳父六十九歳の時で
 師の逝去一年前であった     
父が頂いた師の玉翰は
  一大巻物となって我家に不滅の光を与えている

(六十三)

父の一生は勉強の一生であった

父は勉強を好んだ

父は勉強を楽しんだ

父は専門(眼科)の勉強は
 患者に対する責務と考えた

父は新刊の専門雑誌を精読すると共に
 古典となった恩師の著書を
 一年一回は読み返した

父は専門外の新聞雑誌も好んで読み
 時勢に順応することを忘れなかった

父の勉強は父の楽しみであった

(六十四)

父は自分自身をよく知っていた

父は自分のペースを大切にした

父は人の好意は素直に受けた

父は人の煽てによって
 自分のペースを乱すことはなかった

父は利を見ては全く従うことはなかった

父は難に遭うては敢えて退くことはなかった

父は         
 己の欲する所がおのずから自己のペースで
 あった

(六十五)

父は絶対の世界に生きていた

父が比較して話すときは
 書は古典 人は先師のことであった

父は
 他人を羨んだり他人を咎めたり
 することは決してなかった

父は
 比較の世界に生きていなかったから
 迷がなかった

父は
 神を敬し人を慈しむことを
 己が道として生きぬいた

父は比較をはなれ絶対の世界に生きていた

(六十六)

父は
 初心を大切にした
父は
 自ら決めたルールを生涯守った
父は
 生涯早朝徒歩神宮参拝をした
父は
 生涯腹七分を限度とした
父は
 生涯禁酒禁煙を断行した
父は
 生涯同じ時計を愛用した
父は
 生涯読書抄録を続けた
父は
 生涯同じ机の前に坐り日記を書いた

(六十七)

父は
 心を動かすことを少なくし
 身を動かすことを多くした
父は
 浪費を少なくし施与を多くした
父は
 理屈を少なくし実践を多くした
父は
 行ったことは必ず記録した
父は
 証拠書類は必ず整理保存した
父は
 求めた書類は必ず通読抄録した
父は
 困難を最良の大学と思った

(六十八)

父は
 いつも相手の立場になって考えた
父は患者に対しては
 患者の立場になって考えた
父は使用人に対しては
 使用人の立場になって考えた
父は子供に対しては
 子供の立場になって考えた
父は妻や嫁に対しては
 妻や嫁の立場になって考えた
父は友人に対しては
 友人の立場になって考えた
父は
 人を咎むる前に先ず自らを反省した

(六十九)

父はいつも人に先立って憂い
 人に後れて楽しんだ
父はいつも弱者の味方となり
 決して権威に卑屈になることは
 なかった
父はいつも衛生に良いことは
 進んでこれを行い
 衛生に悪いことは
 決して行わなかった

父はいつも心身の強健のため
 腰骨を立てて万歩鍛錬し
 神前に祈ることを
 一日も怠らなかった

父はいつも邪念を一掃して
 つねに自然に親しみ
 詩魂を養った

(七十)

父は朝に無事を祈り
 夕に無事を感謝した

父は無事有事の如く
 有事無事の如く身を処した

父は常に治に居て乱を忘れなかった

父は常に死を覚悟して
 今日只今の生の充実を図った

父は故きを温ねて新しきを知るために
 好んで史書を読んだ

父は日々新しく日々高く
 一日を一生の縮図とした