父 杉田正臣著

(四十一)

父は縁の下の力持ちを好んだ

父は会長の時は寸暇を利用して
書記や小使の仕事をひそかに助けた

父は八十歳をこえて
看護婦を助けて薬つくりをした

父は廃物利用を好んだ

父の手にかかると子や孫の書き捨てたノートが
立派な抄録帳となった

父にとっては どんなものでも
廃物ではなかった

父にとっては 一粒の米も
一枚の紙も宝物であった

(四十二)

父は常に身体を清潔にし身辺を整理した

父は毎日入浴し入念に身体を潔めた

父は寸暇を利用して身辺の事物を整理した

父の肌着は極めて質素ではあったが
常に清潔であった

父の所有物は嚢中のものを探るように
常にその所存が明らかであった

父の一日は常に一生の覚悟で貫かれていた

父の日々の言行は皆そのままヤ遺言であり
遺書であった

(四十三)

父は朋友を信じた
  河豚汁をすすり肝胆相照らす
 これが父の朋友に対する心境であった

父は史書を好んだ
  澄めるは天に濁れるは地に秋晴るる
 これが父の詠史の心境であった

父は生きとし生けるものを愛した
  雀あしおとさして来た
 これが父の雀に対する心境であった

父も時には自らを顧みて
  つきよの影は柿のへた
 と自嘲に似た詠嘆もあったが

父はついに瑞穂の国に生きたことを喜んで
  米たべて生きて八十八の春
 と一生を述懐し感謝した

(四十四)

父の最晩年の心残りは母のことであった
父の最後の遺言は母をたのむということで
あった
母は三十六歳で七人の子供のある父のところに
来た人であった
母は父のために子のために一生懸命働いた
父の功成り名を遂げたのは
母の内助の功によるところが多大であった‘
父の米寿と共に母の喜寿を子供達は深い感謝
をこめて祝うた

父は母のいたれりつくせりの看護で九十一歳
の天寿を全うした
父の霊前に毎朝手作りの花を供えて母は今年
八十八歳を迎えた 
五月十四日「母の日」に子供達は母の部屋に
集まり心から母の米寿を祝った
在天の父よ願わくば安んじたまわらむことを

(四十五)

父は祖父野田丹彦の三男であった

父は幼にして杉田家の養子となった

父は困苦の裡に成人した

父は十四歳の時志を立てて郷里を出た

父の父は国学者黒住教の神官であった

父は異郷にあって祖父から一通の封書を
受け取った

父の受け取った封書の中には
   杉田氏   児をおもふ親の心を心とし
   に送る   みがけや磨け大和魂 
                 成諄
と書かれていた

「父の日」六月十八日私は父を想い父の父を想う

(四十六)

父がはじめて郡医師会長になったのは
明治三十六年三十四歳の時であった

父は郡医師会長を辞した後は
進んで幹事兼評議員となり新会長を助けた

父がはじめて県医師会長になったのは
明治三十九年三十七歳の時であった

父は県医師会長を辞した後は
進んで理事となり新会長を助けた

父はまず先輩を会長に推し
進んで後進に道を譲るのを常とした

父が惜しまれて県医師会長を円満退任したのは
昭和十七年七十一二歳の時であった

父は終生医師会に深い関心を持ち
心からその健全な発展を願った


(四十七)

父は祖母に対していつもやさしく
心から敬愛していた
父は祖母にあまえているのではないか
と思うほど柔順であった
父はそのころ七十歳に近く
県医師会長としてきわめて多忙であった
父はいかに多忙であっても祖母のいうことは
ハイハイといってすこしもさからわなかった
父のその態度は素直な小学生が母のいいつけを
ハイハイと聞いているように微笑ましかった

父は祖母が最後の床についた時
母と共に夜を徹して看病した

祖母九十一歳で父の腕に抱かれたまま
安らかに眠るように逝った

(四十八)

晩年の父は
朝日夕日を浴びてよく散歩した
晩年の父は
西に東に娘や孫の家庭訪問をした
晩年父は
ひなたで猫と話をしていた
晩年の父は
人知れず紙屑を拾っていた
晩年の父はひとりで庭木の手入れをしていた

晩年の父は
旧友録を開いて便りを書いた
晩年の父は
旧友の遺族を慰問した
晩年の父は
子や孫の捨てたものを拾い修理し整頓した
晩年の父は
よく若い看護婦の師や友となった
晩年の父はよく百科辞典を抄録していた

(四十九)

父はそのころ八十八歳になっていた
父は日課の朝の散歩に私を
 つれて歩くようになった
父のお伴をして朝早く散歩するのは
 私の楽しみであった
父と歩きながらある朝私は
 長生きの秘訣をきいた
父はわからんなあといった

父は金の心配が一番
 からだにさわるといった
父は二つたべたい時は一つたべ
 一つたべたいときは半分たべるといった

父ほどに足をきたえ頭をきたえ
食養生したら誰でも長生きできるだろうと
私は思った

(五十)

父の床上生活は
 昭和三十五年五月下旬から始まった
父の病気は
 老衰であると父の信頼したO博士は診断した
父の脈と体温を
 朝夕診るのが私の日課となった
父の脈と体温は
 毎日ほとんと変わらなかった
父は何の苦痛も訴えず注射一本不要だった
父はだんだん自然にかえるように思われた
父は私の父であり師であり友であったが
 ついに患者となった
父は私の検診を侍ちそれがすむと
 安心して赤児のように眠った
父はかくて昭和三十五年十二月七日午後三時
私に手を握られながら永い眠りについた