童謡詩人金子みすゞの言葉についての視点への考察

大漁

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ

はまは祭りの 
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう
                                                           (わたしと小鳥とすずと より)

「おさかながおそうしきをしている。」ということ、ここには、「人間と同じように」という人間中心のまなざしの入る余地は全くありません。しかし、とても残念なことに、大人である私の意識の底では、人間のそうしきと同じように、いわしが長い行列をつくって墓地に向う様子を一度も思いうかべたことがない気がするのです。」と金子みすゞを世に出した、矢崎節夫氏は語っている。 

大人は自分がかつて聞いたり、学んだりした大切なことを未来のある小さな人たちにわかりやすく伝えるのが大きな仕事なのにいつのまにか、しなくなったのである。大切なことを伝えない大人になってしまってごめんなさい、大切なことを思い出させてくれてありがとうとも矢崎節夫氏は熱く語っているのである。

言葉とは何か、それはむずかしく言語を使うのではなく、平易に、わかりやすく語ることが大切なのだということを、この童謡は教えてくれているのである。特別な言葉で固められた言語学の言葉を誰にでもわかる、わかりやすい言葉で語ることが、開かれた言語学となるのではないかと思うのである。特別な人が、特別の言葉を使うのではなく、普通の人が、普通の言葉を使うようになる様、努力すべきであると思うのである。