三宝 第65号  『仕事の本質』 才能

[才能] 心の貧しさとは、はたしてこんな生き方でよいだろうか、人間とは何だろうかと、求め続けることである。ところが今日のように、物が豊かとなり、若年の労働力がどこでもチヤホヤされるようになると、心の糧を求めるどころか、真剣に働くという考えも薄れてくるのではないか。石にかじりついてもという追い立てるものがない。そして自分の才能を活かしてくれるところを求めて、転々としやすい。
 
ところが才能などは、そうやたらとあるものではないし、音楽や美術など、感覚的なものは認められやすいが、その他の才能となると、長い訓練や知性が必要となるので、自分が思うほど、才能は認められない。確かに昔よりは才能は増大している、生かされ易くなっている。親も子供もの才能を見つけ伸ばそうとしているし、社会もそれを待っている。それだけ一般に才能が要求され、使われるようになってきたために、少々の才能では役立たないということになる。すると今後は自分に才能があると思っていても、認められず活かされないとなると、不満を生じたり、劣等感をもち易くなる。
 
社会がその人の実力通りにか、当たり前に扱っていても、本人は中々そうは受け取れないものである。才能という言葉が頭にうかぶ人には、多少の優等感つまり、自惚れというものがあるからだ。そしてマスコミが、色々な面のエリートの活躍ぶりを伝える。マスコミが、沢山の情報を伝えることは、悪いことではない。しかし受け取る方に心の訓練が出来ていないと、自分もあんなになりたい、なれるはず、なれないのはまわりが悪いという考えになりやすい。
 
有名大学の卒業生は、大部分が、カッコイイ仕事を求めるという。例えば日本航空とか伊藤忠とか、それは海外派遣社員になれるとあこがれるからだ。十年も苦労せねば、責任者として海外駐在員にはなれないのに、すぐにでもゆけるような錯覚をもつ甘さがあるという。したがって、人は、才能をみきわめそれをのばすという地道な訓練をすると同時に、マスコミの情報をよりわけ、ふりまわされないことが大切である。
 
今はまさに「情報カタル」つまり情報の消化不良の時代である。多く知るのは便利であり、能率はよい。しかし今度は情報に頼りすぎ、それでどうしたらよいでしょうかという人間か多くなってしまう。情報とは知るものであるが答えではない。多く知ることによって、よりよく考え、さらに飛躍するのでなければ、かえって情報に押しつぶされる。あそこも始めた、ここもやっている、だからだめだろうと、何事も始める前から悲観するというのでは、才能を伸ばすどころか、生きるための最小限の仕事をすることすら出来なくなってしまう。根強く自分の才能を伸ばすと同時に、情報を活用して、自分を生かす道を見出しててゆくことが大切であろう。