三宝 第65号  『仕事の本質』 自己認識

「自己認識」昔は、己を知らぬがゆえにこつこつと十年も二十年も同じ道を歩いた。今は己を早く知りすぎるために、一つのことを長く続けられない。

己を知るというが、己の本質や値打ちを知るのではなく、自分が何をしたいとか、何にむいているとか、どんなことをすればいくらになるとか、沢山の情報によって、他と比較する面が多くなったということである。その結果、大部分の人が、今の自分の収入は馬鹿らしいと感じる。又は劣等感や限界感を感じる。そして早目に、いや初めからやる気を失ってしまう。そして突飛なこと、長い訓練を要しない感覚的なことをやろうとする。そして少数の人が、優等感をもつ。
 
ものごとを考える場合、いくつもならべて比較することは大切である。考えるというのは、一つ一つを知り、そして比較して判断することである。しかし自分という人間を他という人間と比較することが出来るのであろうか。
 
己を知るということは、人間を知ることだから大変である。それが分からずに他と比較するのは、誤りであり、それが許されるのは、自分を激励する時だけである。働くということを考えれば、何のためとなり、生きるためというなら、なぜ生きるかとなる。「働く、食う、生きる、なぜ」これが人生観である。それの集団が社会観であり国家観、世界観となる。世にいう偉い人はこの基本の人生観をすっとばして世界平和を論じやすい。それは砂上楼閣で、自分の平和すら保ち得ない。大政治家が選挙の時に、なぜお願いしますと連呼するのだから、私の力ではない。したがって皆様の云う通りを忠実に伝えるテープレコーダーの役目をしますというのが今の民主主義代議士なのかも知れない。

自己認識を専門に教えるのが宗教である。道元禅師は、仏教とは己を習うことだと云われた。哲学や文学も己を知ることではある。一方面の探究は徹底する。しかしかくあるべきという理想像がいまだにかかげられていない。

三島さんのように、ハラキリの場面を創作して、自ら実行するというのでは、いかに国を思うということでも、多くの人の共感を呼びえないのではないか。

死は生き抜いたことの結果であって、生き抜くことでやり通せないから死をもって、自分の意志を通そうとするのは、死を道具のように使ったことになりはしないだろうか。
 
釈尊はかって三十五才で真理を悟られた。それは人間個人としてゆきつくところまでゆきついた頂点である。したがってもう生きて何かを探究し、経験する必要がなくなった。だからその生を捨てようとされたのである。しかし、自分の過去と同じように、真理へゆきつかずに苦しんでいる人々のために生きて真理を伝える旅をしようと、再び世の中に出てこられた。

それから実にあの熱いインドで、700キロの道順を何十回と裸足で往復して、人々に法を説き、それを四十五年間なさったのである。

そして「なすことはなし終えり。法を説く者には説き、多くの者に法のご縁はちゃんと作った」としてサラの木の時ならぬ花の下で、静かに目を閉じられた。これこそ生き抜いた、しかもそれがただ人々のために生き抜いた方の結果としての死である。

それははたして死であろうか。生き抜いた人には、理想の世界に行かれたという事実があるのみで、死はないのであろう。釈尊は「われ不死を正覚せり」と公言されている。真理へ到達した人には、生のみがあって、死はない。これが宗教の世界である。東洋、西洋をこえた超越の世界かある。この真理実現、理想の道が、個人の人生観となり、世界の平和観となる日も、そう遠くはないであろう。