三宝 第91号 「釈尊仏教の教とは何か」 本論は「教・行・証」

  本論は「教・行・証」
 
この小論は釈尊の仏教にある程度の関心を持たれる方を対象としているーので直ちに本論に入る。三学=教行証。教とは仏教の真理観、行とはその体得方法、証とはその体得。
 
この小論は教のしかも最も中心的なものに限定。仏教の解説書はかなり書店にも出ている、釈尊仏教のいわば要点だけにしぼったものはない。それは出版社の事情が主になるからであろう。勿論それも啓蒙の実をあげるもので必要であるが、啓蒙をもう一つしぼると
要約書というものが必要になる。原始仏教が日本に入って丁度百年、啓蒙もかなり行われているとみられるからである。
 
仏教の真理観、真理とするもの、法(ダンマ)とは何か。

「縁起」
これあるゆえに、かれもあり。これ生ずれば、かれ生ず。無明によりて、行生じ、ないし老死の苦悩あり。
これなきゆえに。かれもなし。これ滅すれはかれ滅す。無明滅すれば、行滅し。ないし老死の苦悩滅す。


一切のものは神によって作られたのではない。多くの原因となるものがあり、それらが相互に縁(条件・環境)となり影響しあって現在のように変化してきているのであるとする。これが二千五百年前、考えつかれたということはまさに驚歎すべきことであろう。

しかし今日はこの真理に畏敬を感じる人は、よほど恵まれた感性を与えられたものと云うべきであろう。人間学に感性が必要なのは、こうした理智の話を聞いても感動を起こさぬのでは、体得したい、出来るという確信が生じないからである。
 
この明解な論理-すべては原因があり、縁があり、結果となるもの-これを人間にあてはめると、人間はなぜ生れてきたか、それは無知、こうした貞理を知りかつ体得するまでになっていなかった無明ーこれは理性の薄弱な衝動状態ーを原因とするというのである。
後年これがもともと理性、自覚し得る能力があるという考え方になったり、とても罪深いという深い自己反省となったとも考えられる。
 
がこゝでは基本原理としての真理観にとゞめる。もともとこの縁起法という考え方は、人間として今、現実に持っている苦悩をみつめ、その原因を知りたいという根本的な人間欲求から出てきたというか、到達されたものである。つまり現在苦からの溯源思考である。勿論これはたゞ表面的な理性を使ってのことではない。深層意識の状態になり、直覚されたものである。一度びこのように理性の深層的理解が出来ると、あとは表面的理性をもって解決策を出すことが出来る。結果をなくすというか、そうでない結果とするためには、原因(縁も含む)をなくすというか、別の原囚に転換すればいいという答が出てくる。

この論理を理解し、さらにその論理を深層意識において体験化することによって一般に超えることが出来ないとされる死と死に伴う苦しみを超越するのである。つまりこの理法は、人間をぬきにしてあり得る真理であると同時に、人間としてはいつかはこの実理に目ざめ、人間としての生存目的を達成せねばならないー人間はそうなっているのだという人間学、人間本質論に立つのが仏教である。
 
人間は一体どうなっているのか-それを知りたい、その知りたいという知的欲求こそ感情的苦悩よりももっと根深いものであることを身をもって知り悩み、その解決を自ら計られたのが釈尊である。
 
こゝに現代人知的苦悩に応じられるたった一つの道があった-</font
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