三宝聖典 第一部 五六項 ケーマーと老婦

 ケーマーと老婦 
サーガラ城のマッダ王の王女と生まれしわれは、魅力ありて人々より愛され、城中は平和なりしかばケーマーと名づけられたり。
 
年頃となりて容色そなわりたれば、父はわれをビンビサーラ王に与えたり。王に深く愛され、容色を誇りとし喜びとせるわれは、容色、物欲のあやまちを説くブッダのみもとに参ることをなさざりき。
 
その時、ビンビサーラ王は、われを導かんとして、人々に竹林精舎を種々に賛歎せしめたり。
  
ブッダの住みたもう、楽しき竹林を見ざるものは、いまだ歓喜園を見ざるなり。人として最大の歓喜なる竹林を見たる者は、神々の歓喜園を見たるなり。神々も地上に降りて楽しき竹林を見て大いに驚き満足す。
 王の功徳によりて生じ、ブッダの功徳によりて飾られしこの竹林を、なに人か説き現わし得ようや。」
 
かくのごとく聞きて、心楽しくなりしわれは、竹林を見んものと王に願えり。王は喜びてあまたのとも人をつけ、熱心にわれに説き、行かしめたり。

「行けよ、富める者よ、眼を楽します竹林を見よ。そはつねにうるわしく輝き、善逝の光明によりて照らされてあるなり。」

花咲ける山すその、蜜蜂は歌い、鳥はさえずり、クジャクの群れて舞える、静まりて清浄なる林園に、仮小屋あちこちにありて、若きビクら修行せり。
  
「この者らは、春のごとくうるわしき肉体ありて、頭をそり、五官の楽を捨て、木のもとにて静思す。まず在家として好むままに欲を楽しみ、年老いてこの賢善の法を行なうべきならずや。」
 
勝利者なる世尊は香室にいまさず、そのみもとに参りたれば、太陽の出づるがごときを見たり。
 
世尊は、楽しく坐れる美しき娘にあおがしめたまえば、こは悪しき牛王ならずやと疑えり。かつて見たる者とくらべようなき、この容色すぐれし娘は、やがて老人に変わり、歯落ち、頭は白く、よだれをたらし、やせ細りてついに倒れたり。 

これを見てわれは、かってなき感動を覚え、身の毛がよ立ち、けがれたる容色をいとおしく思えり。その時、大悲者世尊は、わが心 感動せるを見たまいて喜ばれ、詩を唱えたまえり。

  「病みて不浄なる この腐れたる肉体を見よ
   けがれしものもれ出づる 愚か者が喜ぶこの肉体を見よ
   はげしき欲にとらわるる者  流れにおちて流れゆく
   クモが糸にて下るごと    まことにむさぼり断ち切りて
   すべてに期待せざる者    欲楽捨てて出家せん。」
 
かくて世尊、種々にわれを正導したまえば、みずからの過去を思い起こし、法の眼を得て、世尊の足もとにひれ状したり。

「一切を見たる者、世尊よ。われは世尊に帰依したてまつる。甘露を施したもう世尊を見ざりし貧しき人々は、輪廻の海にて大いなる苦を受く。
 
世間の帰依なす所、煩いなき方、死の終わりに行ける方を、そのすぐれしみ教えを見ざりし、わがあやまちをさん悔したてまつる。
 
大利益ある願を与えたもう方を、利益なき者なりと疑いて参らず。物欲を喜びしわがあやまちをさん悔したてまつる。」と。
 
かくてケーマー夫人は王に出家を願いて許されたり。ビク尼となりて七ヵ月をへたる時、燈火の生と滅とを見て感動し、縁起説に熟達し、はげしき流れをこえてアラハンの聖者となりたり。その後、コーサラ国王の難問にたくみに答え、世尊はビク尼中、知恵第一なりとたたえたまえり。
南伝二七巻四〇八頁小部ヒ諭経長老尼ヒ諭