やる気と人間性 ある経営コンサルタントとの対話 #15(喜びにつながることにだけやる気を持つ)

 喜びにつながることにだけやる気を持つ

要するに喜びにつながること以外にはやる気を起こさないという前提に立つ。喜びにつながるようにする、喜びは何かというと、出来ること分かることなんです。持てること、獲得すること、何か手に入れればこれは喜び、その話が分かれば喜び、その仕事が出来れば喜び、出来る、出来たという経験を数多く持たせることが喜びにつながるわけです。

だから休当たりでやれよと言っても、本人は出来た経験はないから、苦になって苦になってしょうがないわけです。出来る経験を持たせるためには、回りが先輩が指導してやらなければならない、そしてお前でも出来たという、出来たという経験を持たせるまではついてやらなければならない。出来そうなものだではいけない。その位のことはできそうなものだというのが間違いの元。喜びは出来たときに、要するに達成経験ですね、達成経験が喜びであり、それは最初は小さく小さく、大きくはできないから小さいことで達成して喜びを持って、その喜びを次の原動力にするわけです。

お前でも出来た、今度も一緒にやろうと、一緒にやるようにして、やらせて本当はお前の力でやったんだというふうにしてやれば、段々段々力が付いてくる。喜びが次のやる気につながる、喜び以外は次のやる気につながらないということです。

叱咤激励をしても喜びにはならない。叱咤激励は責めているんですから。責められているわけですから、誰が喜びますか。そうすると喜ばないことはやらないんです。だから叱咤激励をすればするほど最低限しかやらないということになる。悪循環していく。だから叱咤激励をいかにしないようにして、そして本人が出来るように、如何に出来るという達成経験を持たせるかという方針で指導教育していけば必ずその中から一人二人と俺にも出来たと、喜びが持てるようになる。その喜びが次のやる気につながる。そうすると本人の自発性になるというわけです。

その方針はちょっと間遠いんです、ついて回らなければならない。練習させなければならない。セールスも練習が必要だという前提に立たないといけない。所がセールスは何かセールスを指導する人は、大体上手な人が指導するんです。自分で自発的にやった人間が指導するんです。セールスで落伍した人が指導はしないんです。だからセールス出来る人が、出来ない人間を指導するから間違えるわけです。これ位できそうなもんだ、俺はやってきたんだからとこうなるでしょう。自分を基準にしてしまう、そこがもう間違っている。

だからいかに出来ない、私がセールス商売は出来ない人間ということを私自身が体験で知ったから私は商売はしない、他所に勤めない、他所に出て行かない、自分でやるという事を考えたわけです。

私も終戦直後色々やったんです、何かやらないと飯食えないから、お金ないから、それでセールスもやったし、魚売りもやったし、それから澱粉工場も作ったし、絵の店、画廊なんかも開いた。色々十何種類やりました。皆続かないんです。自分の経験がないことばっかり、技術もない、学歴もないお金も無い、引っ張ってくれる人もいない。友達もいない。それで終戦直後のごたごたしている時にあれやりこれやり、どれも続かない。

私は勤めるのも駄目、セールスも駄目、商売も駄目、ではどうするか。人が私の所に来るようにする。私が自分から売りに行くのは恥ずかしいんです、私のような人問は。だからセールス駄目なんです。 所が教えるのは恥ずかしくない。売りに行くのはいっちょお願いしますというのはこれは恥ずかしいわけです。日本人の感覚で恥ずかしい。セールスマンというのは日本では低く見られている、アメリカは別です。アメリカはセールスは花形だから、日本では何かというと、見られる前提に立っているから、恥ずかしいわけでしょう。


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