勤労の聖僧 桃水 #40(九、労働時代 その一)

九、労働時代
 
さて、聖僧の乞食生活に就いては、それは30ヶ年続けられたと伝えられてnいたり、或いは、10ヶ年続けられたと伝えられたりする程で、確たる伝えといってはない。また、乞食と労働とが併行的に続けられたと伝えておられる者もあるが、これは信ずるに足らない。
 
聖僧の乞食生活時代を最も短期間と観ておられるのは田中茂氏で、その期間は5、6年恐らくは、10年間以上のものではないとしておられるが、私は、3、4年、恐らくは、5、6年以上は出ないであろうと想像しているものである。若し、『それは余りうがち過ぎた想像である』という非難を恐れずして私がいうならば、それは聖僧の円頂の頭髪が延びてどうやら髷らしいものを結ぶに至る迄の期間―詰まり、3、4ヶ年に過ぎぬかも分からぬと思う者である。しかし、想像の根拠に就いては、後段に於て説述することにしたい。
 
聖僧の労働生活に就いては、それが如何なる種類の労働生活から始めたものであるかは、誰も伝えていない。労働の場所の前後関係に就いては、京都よりは伊勢の方が先であると伝えられているが、とにかく、聖僧の、江州、大津で馬の沓草鞋を作っていた頃のことである。
 
聖僧は、当時は、商家と商家との間の、六、七尺ばかりの空地を借りて、そこに名のみの小舎を建てゝいたとのことである。それは、本当に雨露を凌ぐに足る程度の藁小舎であった。小舎の中には、別に煮炊きの器具は、なかったと伝えられている。また、小舎の中には仏壇だになかったゝめに、知合いの馬子や人足たちは、聖僧に対して、なぜ、家の中に仏壇を置かぬかと尋ねた。すると、聖僧は「仏も飯を炊かぬところは嫌がるからのう。」と答えた。馬子や人足たちは、大変心配して、その中の一人は、「お仏壇を祭っていなくちゃ切支丹だといはれるから、おれが仏壇を持って来てやろう。それを祭るがよい。」といった。それから、その馬子は、大津絵の阿弥陀像を持って来て、聖僧に渡してやった。
 
聖僧は、その時、その親切な馬子に対して、「おれは仏はいらんといっているのに、この狭いところへ無理に仏を持ちこんで来て、仏は迷惑することじゃろう。」とぶつくさと独り言をいいながら受け取った。
 
それから、四、五日経ってから、隣家の商人は、聖僧の不在の小舎の中を覗いてみると、小舎の隅に、その阿弥陀像を掛けている。文字のようなものがその阿弥陀像に書いてあるから、何だろうと思いながら、よくよく見ると、―

『せまけれど宿をかすぞよ阿弥陀どの後生頼むとおぼしめすなよ』
 と書いてあった。その文字は筆がないものだから、消炭をもって書いたものであったとのことである。
 聖僧の大津時代に於ける逸話は。それだけでは尽きない。私の先に語った雲歩禅師との邂逅の逸話もある。
 
私は、更に詳しくその逸話を茲に語ろう。
 
聖僧の法弟に、黒衣の傑僧として知らるゝ雲歩禅師というのがあった。
 
その履歴を茲に紹介しよう。
 
雲歩禅師は、肥後熊本に生まれた人である。九才にして長流院の宗鉄禅師に就いて得度した。当時は、宗鉄禅師は、円応寺から長流院へ移住していたのである。桃水禅師は七才で得度したが、この人は九才で得度した。雲歩禅師もまた、19才になるに及んで出遊して、諸々の全知識の門を叩き、帰郷後は、肥後、立田村に庵を結んで、それを拝聖庵と号した。その後、当時の領主たりし細川越中守綱利の帰依を受けて、能仁寺を創建し、また、天福寺を創建した。
 
この雲歩禅師は、一生涯、絹布を纏わなかったことで有名である。面山禅師の伝えに拠れば、雲歩禅師は、次の文章に見ゆるが如き人である。
『肥後、柿原村、天福寺開山行巌雲歩禅師ハ大徳ノ師ナリ、細川少将綱利侯ノ帰崇アリテ、豊後ニ説法シテ、邪宗門ノ輩ヲ転バシメ、皆三宝ニ帰依セシメシ道徳ニ依テ、豊後ノ高田ニ能仁寺、肥後ニ天福寺ヲ開闢セシメ、共ニ二十余ヶ寺ノ枝寺ヲ建立セラレ、豊肥ノ間ニ三十ヶ所ノ新精舎アリ、老後ニ天福寺ニテ、朧月八日ニ示寂セラル、余弱年ノ時拝セシニ、額高ク、眼ニ異相アリ、眉間ニ白毫アレテ宛曲ス、伸レバ二寸バカリニ見ユ、実ニ宿世、積功累徳ノ人ト察セラル、来世ニ希有ノ尊宿ナリ、雲歩閑山ノ風ヲ恋テ、一生師承ヲ用イズ、首職ナク参内セズ、黒衣ニテ弘法セリシヲ、細川侯特ニ尊重アリテ、在武府ノ節モ聞法ノ為トテ、館ニ卓庵シ請シテ晨夕法談ヲ聞カル』(以下略)
 
雲歩禅師は、細川侯から招かれて江戸へ行っているところであった。お伴の僧は四、五人、その中には禅師の下男も混じっていた。
 
ちょうど、一行の、大津の町に差し掛かった時、駕籠かき共は、旅の疲れを休めるために、雲歩禅師の輿をそこに下ろして休んでいた。
 
その時のことであった。
 
どこからともなく、沓草鞋を背中に背負った一人の白髪頭の年寄りがそこに現れた。
 すると、その年寄りの来るのを待っていたのであろう、そこらにいた馬子たちはわれ先にと、口々に騒ぎながら、二束、三束と草鞋を買い求め出した。
 
雲歩禅師は、その時、何心なく、その年寄りの姿を見た時、それは法兄桃水禅師の変わりた姿であったから、大いに驚いたことである。
(若しか、逃げられてはならぬ)
 
と思ったものだから、雲歩禅師は、伴僧へは頼まないで、自分で声を掛ける積もりになって、輿の中から急いで出た。それから、桃水禅師の両手を取り上げたかと思うと、雲歩禅師は、

「桃水禅師ではござらぬか?」

とこう問うた。
 
しかし、桃水禅師は、別に大して驚いたふうもしないで、いった。「貴殿はどこへ行くところじゃ?」
 
「細川少将のお招き故、これから江戸へ行くところじゃ。」
 
雲歩禅師は、余りにも変わり果てた桃水禅師の姿を見たものだから、何時迄も桃水禅師の両手を離そうとしないばかりではなく、思わず知らず、ほろりと涙を出すのであった。
 
やがて、「思い設けぬ処で邂逅して、何よりでございます。」と、雲歩禅師はいった。
 
「ご覧の通りの姿なれど、愚僧は別に恥づかしと思ってはおらぬ。」
 
「成程、御尤。」
 
すると、その時、桃水禅師は、―
 
「雲歩殿、最早再会は覚束なかろう。どうか長寿にていて下さるようにお願いする。それに、雲歩殿、主持ち同然なれば、務め方大事じゃぞ。さらば……」
 
こういいも終わらぬうちに、桃水禅師は、それまで雲歩禅師に握られていた手を振り放すと共に、もはや、後ろも振り向かないで、どこかへ、すたすたと急ぎ足になって行ってしまった。

先程から、この不思議なる対面の光景を見ていた近所の人たちは、桃水禅師のことを、今初めて普通の人ではないと知るのである。

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