勤労の聖僧 桃水 #39(8、聖僧に於ける一人の女性 その二)

私は、附言したい。
 
面山禅師の『桃水和尚賛伝』の中には、聖僧は伊勢の内宮外宮近辺の乞食の群にも混じっていたと伝えられている。想うに、そんな噂が、風の便りに、島原へ伝わった。知法は、それを聞いて、伊勢へは、伊勢参宮旁々聖僧を探し求めて行ったのであろう。そして、京都へは、聖僧を探す旁々、御無沙汰見舞いに縁故の家へ立ち寄ったのであろう。
 
また、私は、聖僧と知法尼との関係は、単なる師弟関係ではない。その間、どんな内容でかの、そして相当深刻な恋愛関係があったものと想像する。が聖僧と知法尼との間に恋愛関係のあったことは、桃水関係のどの伝記にも伝えられていない。
 
上掲の聖僧に関する伝えをみるに、聖僧は禅林寺を脱走、上洛して、乞食の群に混じって、癩病やみの乞食の看護に当たっている。斯かる伝えを見て、中村星湖氏は聖僧にキリスト教の影響ありと想像しておられる。そしてその想像の根拠として、聖僧、肥前、島原在住のこと、当時の日本に於けるキリスト教は島原を中心として発展しようとしていたことを挙げておられると共に、聖僧は意識的にキリスト教の影響を受けていたものと想像しておられる。この中村星湖氏の御想像は、普通一般の人を直ちに同感せしむる合理性を帯びているが、しかし、私は、直ちに同感することは出来ない。何となれば、その理由は次の如しである。

 級照る片岡山に
 飯に飢えて
 臥せる
 その旅人あわれ
 親なしに
 汝なりけめや
 さす竹の君
 はやなき
 飯に飢えて
 こやせる
 その旅人あわれ

―これは、片面の段々にだけ日の照っている山の中腹に行き仆れた乞食に食を与え給う時の聖徳太子の御心境である。
 
聖徳太子は、毎年五月五日を期して、『薬がり』という行事を遊ばされた。これは、名の如く薬草の採取である。仏教に対する信仰に優れた御心掛の太子は、当時の先進国たる随からこの行事をおとりいれになって、病める者の苦をお除きなさろうとのお心掛けを世にお示しになったばかりではなく、貧しい病苦の民をお救いなさるために、施薬院悲田院、療病院などをお設立なされて、夙に仏道の上に立つ社会事業に御進出遊ばされておられる。
 
その聖徳太子のお作りになる十一面観音の像は、聖僧の得度をうけた肥前、武雄、円応寺の本尊であった、恐らくは、当時円応寺の住職たりし宗鉄禅師は、聖徳太子の御徳行に就いては屡々幼年聖僧桃水へ話して聞かせたことであろう。詰まり、癩病人に対する救護は、何もキリスト教徒のみが専ら行っていたのではない、聖徳太子の御時代に既にこの事は行われていたのである。昔の日本に於ける宗教家の社会事業としては、貧民のために建てた弘法大師の『総芸種智院』という学校のあることも有名である。故に、聖僧にキリスト教の影響がしかも意識的にあったと想われるといはれる、中村星湖氏の御想像は、聖僧の乞食の群れに身を投じた点と癩病やみの乞食の看護をした点と、聖僧の在住寺たりし禅林寺肥前、島原にあり、同地は当時の日本のキリスト教の中心地であったという点との三点に根拠を置く程度のものに過ぎなく、到底、そこにわれわれの刮目に値する洞察力があるとはいえないのである。
 
また、乞食境界に僧侶の身を置いたことも、聖僧のそれをもって初めとはいえない。既に、先行者がある。あの、『おどり念仏』をもって有名なる空也上人を挙げなければならない。
 
空也上人は、天慶年間に於て最も異彩を放った高僧である。上人は、世の多くの僧侶の、美しい法衣を纏うこと、大寺院に住むこと、僧位の上昇を只管希むことのみに汲々たるに反対して、寺院を求めず、高き僧位をも求めはしなかった。否、一定の道場をだに持とうとはしなかった。そして、市中の雑踏の中に出で、所嫌わず念仏を唱えて歩いた。のみならず、上人は、一定の住所をだに持たなかった。上人は、日が暮れると所嫌わず泊まり、夜が明けると歩くといったふうに、乞食をしながら、行脚したのであるが、無所有、無一物の境界に身を置いたことに対しては、桃水以上に喜びを感ずる性格であったから、法悦を感ずると、嬉しさの余り、踊りはねつゝ念仏を唱えたそうである。恐らくは、上人は嬉しさの余り踊りはねたのであろうが、当時の世間は、上人の、意識的になすものかの如く思って、それを『おどり念仏』といった。
 
空也上人に関する逸話の一つに、こんなのがある。
 
天慶の初め頃、上人は鞍馬山に隠棲して弟子を教えていたが、或る日のこと、飄然として山を去って姿を眩ました。そこで、弟子たちは相談して止むなく解散したが、それから数ヶ月後の或る日、その弟子の一人が上人を見付けた。上人は京都市中の或る場所で、藁席を敷き、その藁席の上には毀れた盆を載せて、往来の人から食を乞うていた。上人の膝下に跪いた弟子は、その理由を訊ねた。すると、上人は答えた。

「市中は山林にもまさって静かだ。」
 
寔に、空也上人の答えは振るっていた。
 
斯く、日本の仏教史を調べてみる時は、『乞食桃水』の乞食生活は、僧侶の乞食生活としては、最初のものとはいえないが、たゞ、その期間の長かったことゝ、その形式が純粋のものであったことゝを、異常なる興味をもって、われわれは留意するのである。
 
故に、私は、聖僧に対するキリスト教の影響問題に就いては、特に知りたいという欲求を持つことが出来ない。
 
しかし、中村氏の、良寛禅師と桃水禅師とを比較して、『北越の沙門良寛が純日本的もしくは東洋流の出世間者であるならば、桃水は殆ど比較することの出来ぬ程積極的な人間である。平凡人である』となす一家言には敬意を表したい。
 
私は、桃水禅師は、北方系日本人であろう、良寛禅師は南方系日本人であろう、故に、桃水禅師は、ある意味に於て(同じく東洋人でありながらも、日本人に比較しては、支那人の方が西洋的であるというような意味に於いて)西洋的な感じがする。良寛禅師の方は東洋的な感じがすると思って、今、それに就いて研究中である。